螺旋模様

| | top

act.8

written by  雪




16.





寿司屋の週末はとても忙しかった。



予約無しで訪れたお客には、待って貰う場所も無い故に、
不本意ながら一度帰す事も多くある。



今日土曜日は、まさしくそんな日で、この店で働く大将も清之介も、
朝から仕入れと仕込み、出前等の仕事で目の回る忙しさに身を置いていた。



皿洗いや接客の事まで考えたら、到底この二人では手が廻らず、
そんな時は決まって、つくしも手伝いに来ていた。



が、ただ一つだけ困っていたのが、つくしが居ない間、
娘の美夕の面倒を誰が看るかという事。



しかし、ここ最近はありがたい事に、その問題も、問題では無くなっていた。



大将の妻、つまりはこの寿司屋の女将が、
足を悪くしたのをきっかけに、寿司屋の仕事を辞めて
美夕の面倒を看てくれるようになったのだ。



この女将と、そして大将との間には実は子供が居らず、
しかし女将は元々子供好きだったが故に、
美夕を預かってくれと言われれば、何時だって嬉しそうにその役目を引き受けていた。



大将と女将、この二人が若い時分から並々ならぬ苦労を重ねてきて、
今の店を軌道に乗せるまでに要した時間は、丸々二〇年。



その長い長い年月、大将と女将の身の上には、本当に、
二度とあの日には戻りたくないと思う程の過酷な日々が繰り返されていた。



やっとの思いをして店を構えたというのに、そんな矢先に
突如立ち退き問題が持ち上がり、潰されそうになった時も過去あった。



あの時に受けた嫌がらせは、
今でも身が震える程凄まじいものだったと、
女将は本当にその身を震わせながらつくしにそっと漏らした事もある。



こんな不安定な毎日を過ごし、
自分達の生活費を捻出するだけでも精一杯で、
そんな、切り詰めに切り詰めた生活では、子供を作るのも思い切れず、
そのうち、一生、家族を増やす事を諦めてしまったこの夫婦。



それは、子供が昔から好きだった女将にとってはとても辛い選択で、
それでも、これが自分の運命なのだと苦渋を呑むしかなかった女将は
諦めた子供の事を忘れるようにして、がむしゃらに、寝る間も惜みつつ働いた。




そんな苦悩の日々を耐え忍び、
必死で頑張って来たからなのだろうか。




苦しみばかりを味合わされた夫婦にも、
何時からか清之介という、まるで息子のような存在が出来、
そして今では、つくしと美夕までもが、
この二人を本物の親のようにして慕い、なついている。



子供が心から欲しかった女将は、これには大層喜んだ。



日頃、体を酷使し過ぎた理由から、
今までどおりに寿司屋で役には立てなくなったこの体だったが、
そんな自分の不甲斐ない存在を、美夕が救ってくれているような、
そんな気さえ感じていた女将。










つくしと清之介から預かった美夕は、今、
畳の上に敷かれた布団の上で穏やかに眠っている。



その美夕の寝顔は本当に天使のようで、
女将は何時まででも飽きずに、この愛らしい寝顔を見下ろしていた。




「目はつくしちゃん似で、口元は清ちゃん似かしら」




そんな事を口にしながら美夕の成長を見るのが楽しみで、
何時からか、この美夕が結婚するまで生きたいという夢まで、女将は抱くようになっていた。







どれぐらいそうして美夕の寝顔を眺めていただろうか。



女将はふと、今の時間が気になり、壁に掛かった時計を見上げた。




時計の針は、あと十分程で二十二時を指そうとしている。




「もう直ぐで今日の営業時間も終りね」




女将はポツリと呟き、一つ溜息を吐いた。



女将はその時思ったのだ。



営業時間が終われば、つくし達にこの美夕を返さなくてはならなくなると。



それは当たり前の事だと重々承知していても、
やはり女将にとっては、美夕と離れる事は辛くて慣れない時間だ。



女将は一時の別れを惜しむように、美夕の小さな手を握り、
「また来てね」と寂しげに呟いた。



すると美夕の指が、ピクピクと一瞬だけ動いて、
まるでそれは返事を返してもらったかのようだと感じた女将は、
思わず笑みを零し、その些細な喜びを大事に自分の中で噛み締めていた。






新たな事が起こったのは、丁度そんな時だった。



女将が見た時計の、丁度真下に置いた電話が突然けたたましく鳴り響いたのだ。



何でも物持ちのいいこの家故に、その電話は未だダイヤル式の黒電話。




この黒電話の音は、それはそれは近所にも聞こえてしまいそうな程大きな音で、
女将は美夕が起きやしないかと冷や冷やしながら急いで電話口に出た。




受話器を持ちながら美夕の寝顔を見ると、
どうやら美夕には電話の音が聞こえなかったらしく、
今も変わらずスヤスヤと眠り続けていて、

女将はそれにはホッと胸を撫で下ろし、
「もしもし?」と、静かな声で電話の向こうの誰かに言った。




『もしもし?』




聞こえてきたのは、男の声だった。



男は自分の名を語らずに、女将に何かを話し掛けている。



そして女将は黙ってその話を聞いていた。



が、突如、さっきまでの穏やかだった表情を焦燥の色に変えていった女将。



次の瞬間には、女将は持っていた受話器を荒々しく置き、
悪い右足を引き摺りながら部屋を飛び出して行った。



それと入れ替わるようにこの部屋に入る人物の事など、
女将はまるで気づきもせずに・・・。




17.



やっと慌しかった店内が落ち着き始めた頃、
清之介はチラリと時計を見やった。



時計は今、二十二時十分を指している。




それを確認した清之介は、
「つくし」、と、今テーブル拭きをしているつくしを呼んだ。



「はい」



「もうここは良いから、つくしは美夕のとこに行っていいぞ」




言われてつくしも、今清之介が見た同じ時計を見上げた。



そして、既に今日の営業時間が終わってるのを知ったつくしは、



「じゃあちょっとだけ様子見てくるね」と言って、
店の奥に繋がる、大将の自宅へと向かって行った。





この日は、つくしが、不審な男に会ってから、五日が過ぎた日だった。



が、五日前のあの日以来、
不審な男がつくしの前に再び顔を出す事は一度も無く、
周りをよくよく注意していた清之介も、
この五日の間にそれらしき人物には会っていないという。



だからと言って安心するなよ、と、つくしは清之介に言われるも、
このつくしも育児に家事に店の手伝いと、忙しい時間を過ごしている事もあって、
何事も無い日々が続けば、徐々に危機感が薄れつつあるのは避けられない。



その上、美夕の側になるべく居ろ、と言う清之介でさえも、
女将に預ける分には何も言いはしないので、
今この時だって、何の不安も無く、
女将と美夕が居るであろう居間に近づいていた。




「女将さん、今営業時間が終わりましたぁ」




報告しながら居間の中を覗くつくし。



しかし、居間には誰も居ない事につくしは首を捻る。



「あれ、何処行ったんだろう・・・」



つくしは他の部屋も覗いてみた。が、やはりそこにも誰も居ない。




「女将さーん、みーゆー」




二人を呼びながら家の中を歩き周るつくしだったが、
然して広くないこの場所だ。誰も見つけられずに
元の居間に戻るまでにはそう時間は掛からない。



「何処行ったんだろう・・・」



つくしは急に不安になった。



その不安は、自ずと、
あの忘れかけていた不審な男の姿まで思い起こさせ、
つくしの胸の内は急にざわざわとざわめき始める。



だが、二人の姿が見えない今に、
それを思い出すのはあまりにも恐ろし過ぎて、
つくしは慌てて男の姿を打ち消し、
「女将さーん」と廊下の左右を見ながらもう一度呼んだ、その時だった。



居間と庭を隔てるその窓から、いきなり探してた女将が現れたのだ。



「女将さん!居るんだったら返事して下さいよ!
 びっくりするじゃないですか!!」


つくしは、女将の方に駆け寄り半べそ状態で言い責めた。



すると女将は、



「あら、私を呼んでたの?ごめんごめん。全然聞こえなかったわ」



と、笑いながら居間の中に入って来るも、
何処か疲れたその様子に、つくしは不意に訝しく思う。



「女将さん、何かあったんですか?」



つくしが遠慮がちに聞くと、女将はまるで、
手放していた意識を取り戻したかのように手を二つ叩いて言った。



「あ、そうそう。ついさっきうちに電話があってね、
 『今お宅の家の前に生ゴミが散乱してるんですけど
 何とかしてもらえませんか』って言われたのよ。
 で、私も驚いちゃって慌てて裏玄関の外に出たら本当にゴミが散乱しててね。
 だから今までその掃除してたの」



「ゴミが散乱?」



「そうなのよ。そのゴミが入ってたうちのポリバケツまで
 道路の真ん中に転がっちゃっててね・・・」




つくしは「え?」と大きく驚いた。



一瞬それが自分のせいだと思ったのだ。



店から出るゴミを、
そのポリバケツまで運ぶのはつくしただ一人の役目だった。



だとしたら、自分以外誰も原因は考えられない。



しかし、よくよく考えれば、そのポリバケツはその裏玄関から
二メートルほど離れた塀の隅に置いてある。



なのにどうして、そのポリバケツが裏玄関の外に出てしまうのか・・・。





「あたし、裏玄関の側にそのポリバケツを
 置いた覚えないですよ・・・」



つくしはボソボソと覇気の無い声で言った。



自分の責任を人に擦り付けてると思われそうで、
思い切って言えなかったのだ。



だが女将だって、まさかつくしのせいとは思って居ない。




「猫か犬の仕業かしらねぇ・・・」




女将は、他の犯人を考えて、一番に思いついた事を呟いた。




猫か犬・・・




それもきっとありえるかもしれない。




これまでも、野良猫がゴミを漁っているのを見かけた事があるつくし。



だからつくしは、そうなのかも、と納得し掛けた。




が、そうすると、今度は
ポリバケツが道路に転がっていたというのが気になりだす。




ゴミを荒らすだけならまだしも、犬や猫が果たして、
ポリバケツを他の場所に移動させるまでするだろうか。




この疑問は、つくしにとっては
どうしても簡単には解せない不可思議な出来事だった。






「もうこんな事初めてだわ。びっくりしちゃ・・・
 あら・・・ねぇつくしちゃん」





女将が、突然言葉を切ってつくしを呼んだ。




まだ疑問が解決出来てないつくしは、
「はい?」と、半分上の空で返事を返す。




女将はつくしに聞いた。




「美夕ちゃんは?」と。




突然出てきた美夕の名は、
ぼんやりしていたつくしをハッと我に返させる。




「え?女将さん、ひょっとして美夕の居場所知らないんですか!?」




「え?あの・・・美夕ちゃん、ここに寝かせてたんだけど
 今居ないから・・・」





女将は足元に敷く布団を指差した。



つくしは、その指を追って布団を見下ろす。



この布団には、さっきから誰も居なかった。



でもそれは、女将が美夕を
何処かに連れてるからだろうとつくしは思っていた。



なのに、その女将は美夕を知らないと言う。



ここに寝ていた筈の美夕が居ない・・・



これは一体どういう事だろう・・・。



まだ歩けない美夕が、
一人でこの場から移動するなんて不可能な事だ。



だとしたら、どうして居ないのか?



つくしの顔色は、一気にその色を失くしていった。



この場にもジッとして居られなくなり、
次の瞬間には店の方へと急いで駆け戻るつくし。




「清之介さん!!」



「おう、どうした、つくし」




清之介は息せき切ったつくしの様子を目を丸くして見つめた。



そんな清之介につくしは悲痛に叫ぶ。




「美夕が・・・美夕が居ないの!!」




清之介が両手に持っていた皿が今、
床に落ちてそこで破壊の音を立てた。




「何だって?」




清之介はつくしの許に駆け寄り、つくしの肩を強く揺らす。




「おい!!つくし!!それは本当なのか!?」



「こんな事で嘘なんかつかないよ!!」



「女将さんが美夕を看てたんじゃねぇのか!?」



「看てたらしいんだけど、
 電話が急に掛かって来たらしくて・・・」



「電話?誰から!」



「さ・・・さぁ」



つくしは分からないと力無く答えたが、電話の内容から、
「うちの電話番号を知ってるって事は近所の人かも」とだけ言った。




その時、やっと右足を引き摺った女将が現れ、




「でも聞いた事の無い声だったわ」と、今のつくしの言葉を継いで清之介に言った。




清之介とつくしが女将を見ると、女将の目は既に真っ赤だった。




「本当にごめんね、つくしちゃん、清ちゃん。
 私が・・・美夕ちゃんから目を離さなければ・・・
 こんな事にならなかったのに・・・」




言葉を時折途切れさせしながら、つくしと清之介に謝罪する女将。




女将は二人に責められて当然だと思っていた。




だからそれを覚悟しながら深々と頭を下げた。



だが、つくしも清之介も、
女将を責めるような事はしなかった。いや、出来なかったのだ。



つくしと清之介はそれぞれに、
女将を責める前に自分を激しく責めていた。




つい先日にあんな事が遭ったばかりなのに、
忙しさにかまけて注意力を薄れさせていた自分の浅はかさを。





「とにかく、俺これから美夕を探してくっから」





清之介は店の扉へと走り出した。



それを「あたしも行く!!」と、つくしが追いかける。



が、清之介はそんなつくしを右手で制し、



「いや、お前はここに居ろ」と、この場に留めようとした。



「どうして!?」




つくしは当然納得しなかった。



美夕の母親はつくしなのだ。



なのにどうして娘を探しに行く事を許してもらえないのか。



つくしはもう一度、「あたしも探しに行く!!」と、
必死に清之介に訴えた。



そのつくしの目には、誰もが認める
母としての強さが映っていた。



清之介にもそれは十分感じ取っていて、
それでも清之介が首を縦に振る事はしなかった。




「言っただろ?お前を外で一人にすっと心配なんだよ」




「あたしは大丈夫よ!!」




「いいから俺の言う事を聞きやがれ!!」




清之介だって、こんなに取り乱しているつくしを怒鳴るのはとても辛い事。



しかし、美夕だけじゃなく、つくしまでもが何かあったらと思うと、
清之介はどうしたってつくしを夜の道に出す事を許す訳にはいかなかった。



だから、聞き分けの無いつくしを厳しい声で黙らせた。




つくしはまだ、清之介を責めるように見ているが、
清之介はゆっくり横に首を振った。



すると、つくしはようやく諦めたのか、
「絶対見つけてきて・・・」と清之介が着てる甚平の裾をギュッと握り締めた。



清之介はその思いに答えるようにつくしの頭を優しくポンポンと叩き、
「絶対見つけてくっから」とつくしに背を向けた。




丁度それと同時に、この店に入ってきた人物が一人居た。




それはここの大将だった。




「おい、清ちゃん。美夕ちゃんが酒屋の外に居たんだが、
 こりゃ一体どうなってんだい」




大将は、営業時間が終わる間際、ちょっと用事があるからと
長年の付き合いがある数メートル先の酒屋に行っていたのだが、
しかい何故かその腕には、今から探しに行こうとした美夕を抱いて店に戻ってきたのだ。



つくしも清之介も、その不可解な状況に一瞬言葉を失った。



それでも、美夕の無事を直ぐにもこの目で確認したい二人は、
大将の許に駆け寄って美夕の顔を見下ろした。



美夕は店内に響き渡らんばかりの声で泣き喚いていた。



そんな美夕も、つくしが大将から受け取って抱くと、途端に泣き止んでしまう。



これは、美夕がつくしを、
自分の母だと認めている事の何よりの証。



つくしは、美夕の流れた涙を指で拭い、
そこにある小さな体を大事に抱き締め直した。



そうすれば感じる、何時もの柔らかい温もり。



つくしはせっかく拭った美夕の頬を、再び自分の涙で濡らし、
そのまま嗚咽を洩らしながら何度も何度も「良かった」と呟いた。



清之介もそんな二人を直ぐ側で見つめ、安堵したように大きな溜息を吐き天井を仰ぎ見る。






しかし、この安堵も長くは続かなかった。




美夕がこうして無事帰って来ても、
何故こんな事が起こったかが分からなければ、
ずっと不安に駆られたままで過ごさなければならない。




「大将、美夕は酒屋に居たんですか?」




清之介は、美夕を連れ帰って来た大将に確認するように尋ねた。



大将は「おう」と頷きながら答え、
「しかし、始めはまさか美夕ちゃんとは思わなかったなぁ」
と、その時の驚きを今思い出すように目を大きくして、顎鬚を指で弄った。



それを聞く清之介だって信じられない気持ちだった。



この家から消えた美夕が、何故その酒屋に居たのか。



「まさか・・・酒屋の玄さんが美夕を連れてったって事は無いですよね?」




清之介は自分がとんでもない事を口走ってるのは自覚していたが、
ありえない事もないかもしれないと、わざと冗談めかしながら言った。




すると、大将は大げさ過ぎるほど声を張り上げながら言い返す。




「そりゃあねぇだろう。玄だって、
 自分の店の前に居る美夕ちゃん見て一緒に驚いていたんだからよ」



「そう・・・ですか・・・」




清之介は大将の言う事を受け入れるも、
本気で頭を混乱させていた。



だとすると、他の誰かが美夕をそこまで連れて行ったって事になる。



一体それは何の為に?



こんな中途半端な誘拐をして、
一体何の得があるっていうのか。



ふと美夕の方を見ると、
美夕はきょとんとした目でつくしの泣き顔を見ていた。



こんな、二人が揃った光景を見ると、
清之介は自分まで目頭が熱くなってくるのを感じた。



原因は何一つ分からないが、
とにかく美夕が無事で居てくれて良かったと心から思う。



そしてその半面で、
この大事な美夕を連れ去ろうとした犯人に怒りが込み上げてきて、
両脇で握り締めた拳が今にも何処かを壊しそうになっていた。



何か、証拠になるものは残されて居ないのだろうか・・・



清之介がそう思ったが矢先、不意に大将が、
「あっ、そうだ」と声を上げて、



「美夕ちゃんの側によ、
 このバッジが落ちてたんだけど清ちゃん、見覚えあるかい」



と、清之介の目の前にそのバッジを差し出したのだ。




清之介はそれを急いで自分の手に受け取り、凝視した。



さっきまで泣いていたつくしも、やはりそのバッジが気になったのか、
何時の間にか清之介の直ぐ側まで歩み寄って一緒にそれを見つめていた。



二人でしっかりとバッジの形を確認した時、
清之介とつくしは同時にお互いの顔を見合わせた。




「大将、これが美夕の側にあったんですか?」




清之介は深刻な口調で大将に尋ねた。




大将は「あぁそうだけど・・・」
と、答えるも、清之介の曇った表情が気になるのか、
まるでその表情が移ったかの様に自分の眉間にも深く皺を寄せた。




「そのバッジ、誰か知り合いの物なのかい?」




大将が聞くと、



「いや・・・ちょっと・・・」




清之介は、言葉を濁してはっきりとは答えなかった。




もちろん思い当たる事はある。




しかし、確信の持てない今の段階でそれを言うのはあまりにも早急過ぎる。



清之介がつくしを見ると、
このつくしもまた、何か言いたいがそれを言えずに居る様子。



結局二人は、大将には何も語らずに、二人は揃ってこの店を後にした。




18.



「これってもしかして・・・」



自宅に戻る途中、つくしが清之介に話しかけた。



何処か遠慮がちにしてるのは、
今バッジの事に触れていいのかを迷っているからだ。



美夕を抱いた清之介は、
つくしが全部を言う前に、
「多分・・・そうだろうな・・・」と溜息を吐いた。



「でも・・・なんで?」



「・・・・・・」



「なんで、美夕の近くに道明寺グループのバッジが落ちてたの?」




つくしの手にあるバッジ、
美夕の側に落ちていたというこのバッジは、
つくしもかつてよく見ていた道明寺グループの社章バッジだった。



羅針盤をデザイン化したこの社章・・・



今は全く道明寺グループとは関係の無いところに居るつくしと清之介も、
これだけは見紛う筈が無い。



「まさか・・・あいつが美夕を?」



清之介が独り言のようにして言った言葉に、
つくしは目を大きくして否定した。



「そ、それは無いわよ。だって、道明寺は
 あたし達の事知らない筈だもの」


「いや、知ってるかもしれねぇ・・・」



「え?」



つくしは思っても無い答えに息を呑んだ。



知ってるかもしれないとは一体どういう事なのか。



清之介は何かを思い出すようにして言った。



「確か三ヶ月前、大河原に会ったよな?俺達・・・」



つくしは、もうそれだけで清之介が言いたい事を理解した。



清之介はきっと、滋が、司に教えたのだと言いたいんだ。



でもだからと言って、
まだそうだと決め付けたくないつくしは言う。



「で、でも、もしあたし達の事知ったからって、
 道明寺はもう何とも思いはしないわよ。きっと
 勝手にやってろみたいな感じだと思うけどな・・・」



「本当にそう思うのか?」



「え?」



「お前は、本当にそんな風に思ってんのか?」



清之介が向けてくる強い視線は、
こんな薄暗い夜道でもありありと見て取れた。



つくしが思わず怯んでしまう程に、まるで刺してくるような強い視線。



清之介は、何かを不安がっている・・・



つくしは直感的にそう思った。



その不安が何処から来るものなのかも、つくしは何となく気がついていた。



それでもつくしは、清之介の考えは間違っていると思った。



司は、もう自分の事を忘れて生活してる筈だ。



何時までも過去に縋って生きている筈が無い。



つくしは決して自惚れの強い女ではなかった。



だからこそ、清之介の思ってるような事は一切無いと思うし、
美夕の事だって、司は関係無いと思っていた。



しかしつくしは、何故かその思いを清之介に訴える事が出来ずに居た。



つくしは正直分からなかったのだ。



何故こんなにも、司は関係無いと強く思うのか・・・。



この手に握るバッジは、紛れも無く道明寺グループの物だ。



だったら司が無関係と思う方が不自然じゃないのか。



一番に疑うべきは司じゃ無いのか・・・。



その時つくしは、
途端に自分に自信が無くなっていくのを感じ、愕然とした。



ひょっとしたら自分は、
司じゃないと、無理やり思い込もうとしてるだけなのかもしれない。



自分の中にある未練のせいで、
無意識のうちに司を庇おうとしてるだけなのかもしれない。



もしそうだとしたら、このまま、自分が司は関係無いと言い続ければ、
清之介はつくしの何かを感じ取ってしまうのかもしれない。



それは、つくしとっては怖い事だった。



だから言えなかった。



司は関係無いと、もう二度と言えなかった・・・。






清之介はすっかり黙り込んでしまっていた。



腕の中には、ぐっすりと安心したように眠っている美夕の顔がある。



その顔を、清之介は一度確認するように見下ろして、
かと思うと、今度は、前に真っ直ぐ続く道を
異常なまでに強く見据えていた。



清之介は今、一体何を考えているのか・・・。



それを知りたくても聞く事が出来ないつくしは、
一人で言い知れない不安に駆られながら、清之介と同じ道を歩いていた。









それは、次の朝の出来事だった。



つくしは明け方の五時過ぎに目を覚まし、
ボサボサになって顔に掛かる髪を後ろに掻き上げながら
まだ日が射さない窓の方を見た。



今日は雨なのだろうか。



窓の外からザアザアといった音がひっきりなしに聞こえてくる。



昔から雨があまり好きじゃないつくしは、
酷く憂鬱な顔をしながら横のベビーベッドの側に行った。



美夕は既に起きていて、
小さな手足をバタバタと元気に動かしていた。



「あら、起きてたの?美夕」



つくしは言いながら、美夕をベッドから抱き上げた。



美夕を見ると単純に笑顔になるつくしは、
今の憂鬱は忘れて、しばらくその場でご機嫌のいい美夕と遊んでいた、が、
「そういえば、清之介さんは何処行ったのかな?」と、
急に清之介の事を思い出し、遊びを止めて、リビングの方へと足を向けた。



今日は寿司屋は店休日なので、
当然清之介はゆっくり休んでいるものと思っていたつくし。


しかし、リビングに行ってもそこには誰も居ず、
「清之介さん?」とあちこち声を掛けても返事は無かった。



「あれ・・・今日休みじゃなかったのかな?」



つくしは首を傾げながら、
何とはなしにリビングにあるテーブルの上に目をやった。



するとそこには、今朝の朝刊が開いたままで置かれてあって、
つくしはちょっと気になってその新聞の前に座った。


美夕を抱いていて両手が塞がっているので、
新聞はテーブルに置いたまま、視線だけをそこに落とす。



開いていた面は、経済面だった。



つくしは活字が並ぶその面の上で、大まかに目を泳がせていた。



車のリコール問題やら、
コンビニ業界の新展開の内容が書かれてある今日の経済面。



が、不意に、つくしのその泳がせていた目が、
ある一文のところで止まったのだ。



つくしは無意識に呟いた。




「道明寺・・・帰国してたんだ・・・」



つくしが目に留まった一文は、
司が一昨日から一時帰国をしているという事を知らせる一文だった。



つくしは直ぐに清之介を思った。



清之介がもし、この記事を読んだのだとしたら、
今ここに居ない理由は・・・



つくしは急に不安になり、美夕をそっと抱き締めた。



そしてこの小さな娘にまるで縋るように呟いた。



「美夕・・・どうしよう・・・」










to be continued...
| | top
Copyright (c) 2006-2007 Tsukasa*gumi All rights reserved.

powered by HTML DWARF