螺旋模様

| | top

act.16

written by  桜くらくら




34.





ソフィアはずっと同じ思考に囚われている。

司のプロポーズは自分への誠意と信じていた。
しかし、それは巧妙に仕組まれた罠だとデニスは言う。
父の命を危機に晒し、動転した娘を甘言で絡め取る卑劣な手口だと。

「その証拠に、君はちっとも幸せじゃない。
 こんなことになるなら、君の夫に立候補しなかったことを悔やむよ。
 いくら、君のお父さんに好かれてないからって、遠慮するべきじゃなかった。」

「そんな… お父様はあなたの実力は評価していたわ!」

「評価はしても、後継者にするつもりはなかった。
 そして君の配偶者になる者には、ロスマン家に匹敵する財力を望んでいられた。
 だから、道明寺家の御曹司の前に、僕は戦わずして諦めてしまったんだ、
 フランク・ロスマンの願い通りに、君が幸せになってくれると信じたから。」

そう言って、哀しげに微笑んだデニス。

「いいね、道明寺家の一族にも、使用人にも、心を許してはいけないよ。
 今は牢獄の様な暮らしでも、いつかきっと救い出してあげるから、
 決して油断せずに、自分自身を守るんだよ。」

デニスの言葉と、その温かい手を思い浮かべながらも、
父の言葉も打ち消しきれない。

「ソフィア、司は素晴らしい男なんだ。
 生まれ持った富なんて、彼の人間としての価値に比べればささやかなものだよ。
 むしろ、彼が財閥の跡取りでなければ、我がロスマン社に誘えたのに、
 彼にならロスマン社の将来を安心して委ねられたろうに、と思うと、
 彼が富豪の息子であることが残念でならないよ。」

父は本当に残念そうに言った。

父の観察眼は、誰もが敬服するものだった。
自らの命を狙う様な裏切り者を、父が手放しで絶賛するだろうか?


そもそも。

ソフィアの脳裏に新たな疑問が浮かぶ。

………お父様は何故、デニスのことを好きじゃなかったのかしら?………

デニスを社長に据えたここ数年、ロスマン社の収益は上がっていた。
むしろ、司が社長に就任して、株価は安定したものの、収益は下がったはず。
デニスが任された支社だけが、増収を続けていると聞く。
デニスが優秀な経営者であることは疑問の余地がないのに。


「僕はフランク・ロスマンに忠誠を誓っていたのに、
 君のお父さんだけじゃなく、上司にも部下にも僕は嫌われるタイプらしい。
 特に上司は、自分より出世しそうな部下を嫌うから、何度も足を
 すくわれそうになったよ。根も葉もない中傷は日常茶飯事だったしね。」

エリート街道を軽やかに駆け上がったかに見えたデニスも、こんな愚痴を零していた。

………嫉妬?……まさかお父様が、デニスが余りに優秀であるがために?
いえ、有り得ないわ、あのお父様が…いえ、でも、もしかしたら………

堂々巡りの思考は留まることなく、精神の疲労を蓄積させる。
道明寺邸の中では周囲の誰もが敵に見え、安らぎを覚えるいとまがない。



邸内では食べ物を口にしない様に心がけていたが、
外で取る食事でも、味覚に違和感を感じる様になった。
始めのうちは、極度の緊張、ストレスに因る一過性のものだと思ったのだが、
徐々に、はっきりとした身体の変調を示すものとなっていった。







35.





このところ、つくしは危険な目にばかり遭っている。

美夕を抱き、歩道を歩いていて車に突っ込まれそうになった時は、
通りがかりのビジネスマンに突き飛ばされ、事なきを得た。

街なかで、ぐいと見知らぬおばさんに腕を引っ張られ引きずられた直後、
自分の真横に大きなコンクリート片が落下して来たこともある。
腕を引かれていなけば、そこにいたであろう、その位置に。

突然、牙を剥いた大型犬に襲いかかられた時は、
学生風の屈強な男が犬を殴り倒してくれた。

いずれも美夕を抱いていた時のことで、
あまりに不穏なことばかり続くので、つくしの精神も疲れ果ててしまった。
清之介は極力外出を避ける様にとつくしに言う。

「おめえに何かあったら、俺は大嘘つきになっちまうだろ?
 何があっても守るって言ったのによ。
 窮屈な思いさせて済まねえが、ちと家んなかで大人しくしていてくんねえか?
 こんなバカなこと、いつまでも続くワケでもあんめえからよ。」

気鬱にばかりなっていると、清之介に迷惑がかかると自分を戒めるのだが、
清之介自身、疲労を隠し切れていない。

本当に、いつかこの見えない敵からの攻撃はやむのだろうか。
自分を抱え込んだがために、清之介の人生まで狂わせてしまったのではないか。
ならば、今すぐにでも美夕と二人、ここを去るべきではないのか。







36.





N.Y.道明寺本社ビルの自室で、司は苛立ち、くせの強い髪を掻きむしった。

朝、一本の電話が入った。
東京のつくしの周りに配していたSPから、天草一家の失踪を伝えるものだった。

これまで間一髪でつくしと美夕を守ってきたものの、
つくしに知られない様に配備したSPでは、できることに限界がある。
新たに手を打たなければと焦っていたところへ、失踪の報告である。
それも、夜の間に、警護に当たっていたSPと共に消えてしまったのだと。

「このところ、つくし様はめっきり外出なさらなくなっておりましたが、
 ご主人がベランダで洗濯物を干していられる時など、部屋の奥に気配は
 感じられました。が、今朝、警備の交代時間に当直のはずの熊田の姿が
 見えず、窓も閉め切ったままで、ご主人が出勤なさる様子もないので…」

寿司店の大将に聞くと、突然辞めると電話があったと言う。
その後の予定は聞いていないと。

つくし達の住む家に忍び込んで確認したが、誰もいないのは明らかだった。




状況が読めない。

失踪したSPは裏切り者なのか、巻き込まれたのか。
天草一家は、自分の意志で姿を消したのか。

そして今、つくしと美夕は無事でいるのか。


秘書が、会長の来訪を告げる。
いつも用があれば自分のオフィスに呼びつけるくせに、自ら司の部屋を
訪れるのは珍しい。

つくしへと飛んでいた思考を遮られ、更に苛つきを覚えながらも楓を招き入れる。

秘書を下がらせ、二人きりになると、楓はメモ用紙にペンを走らせた。

[椿さんのホテルで寿司職人を捜していたので、心当たりを紹介しておきました。
 ご夫婦とも語学が堪能なので、好都合でした]

司は驚きながらもペンを執る。

[カメリアの、どこに?]

[知らない方がいいわ。セキュリティーは完璧だけど、どこから崩れるか判らないので]

[無事に移動できたのか?]

[SPの熊田が現地まで送り届けました。
 彼女を狙っている首謀者が特定できないので、このことは内密に。]

楓は灰皿を引き寄せ、やり取りしたメモをその上に重ねる。
司は無言でそれに火をつけた。

「それからあなた、たまには家に帰りなさい。
 ソフィアさんの様子がおかしいので、ドクターを呼んで確認しました。
 今、8週目だそうです。」

唐突な楓の言葉に司は疑問の顔を向ける。

「あなたの奥さんが妊娠しているの。
 夫に報告もできないでいるのは不安でしょうから、
 顔を合わせて不安を取り除いてあげないと。」

「にん…しん…?」

「やはり驚いているわね。まあ、私も驚きましたけど。」

そう告げると、楓は部屋を出て行った。





一人になると司は窓に寄り、空を見上げた。
雲一つない青空。

思わず笑いが込み上げ、その笑いの意味を自分でも理解できなかった。

何もかもが茶番に思える。
大事な女が自己犠牲を貫いて自分に歩ませた道も。
真剣に考え、身を切る思いで決断したことも。

その結果、複雑に絡み合い、誰一人幸せでない現在の状況も。

………俺の結婚は、俺と牧野の独りよがりだったのか?………

いやいや、恩人に報いるために、無駄なことではなかったはずだ。
この結婚で、俺のやるべきことは、まだ残っている。







37.





久方振りの夫の帰宅を知らされ、ソフィアは戦場に赴く様な思いで司の待つ
部屋に向かう。

義母に妊娠を知られた時から覚悟はしていた。
不義の子を身ごもった妻に、夫はどんな態度をとるか判らない。
でも、強くならなければ。
この子の母親は私しかいないのだから。

顔を合わせるなり「よお!」と声を掛けてきた夫は、思いの外、穏やかな表情をしてる。

「子どもができたんだってな?!」嬉しそうに笑う夫の瞳に、かつての輝きが
戻っているかの様だ。

夫の真意が判らない。
自分の子ではないと、はっきり判っているはずなのに、
妻の不貞を責めることもしない。

愛がないのは判っていたにしても、この喜び方は何なんだろう?
私を追い詰めるコマを手に入れたつもりだろうか?

「この家じゃ、居心地悪そうだと聞いているぞ。
 安心して出産できる様に、実家に移ってもいいし、
 お気に入りの使用人をこっちに連れて来てもいい。
 とにかく、ストレス溜めない様に気を付けなくちゃな。」

永らく聞くことの出来なかった、夫からの優しい言葉。

………まさか、あの半年前の交わりでの懐妊と思っているのかしら?
純粋に、我が子の誕生を心待ちにしているのだとしたら……?

バカげている。でも、ひょっとしたら、夫は本当のバカなのかも。


「来週の取締役会、出席できそうか?
 大事な身体なんだから、無理しなくても、どうせ大した議題じゃないし。」

そう訊いてくる夫の態度はあくまでも優しい。やっぱり真性のバカかしら?

「大したことないって、その議題は何でしたっけ?」

知っていながら敢えて夫に尋ねる。

「このところ、社の製品の不具合が多く報告されている。
 それに関して、経営方針の問題点の洗い出しをするんだが、
 今回は、実効性のある対策を決議する場でもない。
 個別の案件への対応は当該の支社が決めることだし、
 ま、実質的には和やかな昼食会になるだろ。」

デニスから聞いていることと矛盾はないが、随分ニュアンスが違う。

『君には是非出席して社の問題点をしっかり見極めて欲しいな。
 恐らく、革新派と守旧派の対立になるから、
 導き出される結論如何で、お辞めになる取締役も何人か出るだろうね。』
デニスはそう言っていたのだ。

ソフィアは司に告げる。

「出席しますわ。少しでもそういった場に顔を出して勉強させて頂かないと……。
 いつまでもお飾り扱いされたくないですもの。」

「そうか、じゃあ、一緒に登場して妊娠の発表もするか?
 ロスマン家の盤石な繁栄をアピールしとこうぜ。」

どう考えても夫はバカだ。
……でも、いつまでも気付かないはずはない。
今は妊娠6ヶ月だと勘違いしているにしても、実際は8週目なのだから…。

無邪気に自分の子と信じているとしたら、
真実を知った時の夫の反応は、更に恐ろしいものになる。
…どうしよう……?




取締役会の日まで、司は毎日家に帰り、ソフィアの心身の安定に気を配った。
ソフィアの中では、道明寺家への疑念と、優しい夫をもう一度信じたい思いが
せめぎ合う。

ひどい抱き方をされた悪夢の様なできごとは、幻だったのかと思われる程に、
夫は自分を大切に扱う。

そして、それを幻だったと思いたい程に、未だ夫に惹き付けられている自分がいる。










to be continued...
| | top
Copyright (c) 2006-2007 Tsukasa*gumi All rights reserved.

powered by HTML DWARF