螺旋模様

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act.23

written by  なお*なお




55.





真っ暗な深淵の中に、あたしは一人でいた。
ここはどこなのだろうか?辺りを見回すけれど、何も見当たらない。
四方八方真っ暗な中、手探りをしても何も掴めない。
でも何故だろう?こんな状況でも、心は静かで穏やかだ。
そういえば、今まで本当に一人になって、心底穏やかな気持ちになど一瞬も無かった。
いつからあたしはこんな気持ちで生きてきたのだろうか?
絶えず誰かの心配をし、常に不安になって、まるで何かから逃れるように生きて来た。
これが果たして、あたしの本当に望んだ道だったのだろうか?

不意に上の方から何か聞こえた。見上げると、暗闇の中にわずかに灯る小さな光。
その光の向こうから、かすかに赤ん坊の泣く声が聞こえる。
この泣き声は誰だろう?どうして泣いてるの?
意識が真っ黒な深淵から、徐々に真っ白な天上の光の方へ上昇する。
知らず知らずの内に、その光に向かって両腕を伸ばす。
まるで何かを抱きとめるように。

そして、あたしは覚醒した。


「み…美夕!」


あたしはベッドの上で横になっていた姿勢から飛び起きた。
でも視界はすぐに暗転し、頭にズキリと刺すような痛みを覚える。
思わず右手でこめかみを押さえ、顔をしかめる。


「美夕ちゃんなら、天草……いや、旦那さんがホテルの外に連れて行ってるよ。
 ずいぶん、散歩が好きな子らしいね」


ゆっくりと穏やかな声が、あたしに向かって語りかけて来た。


「美作さん…」


「いきなり起きないで、少し横になった方がいい」


あたしの肩に優しく手をかけると、横になるように促す。


「あたし…デニスって言う人に襲われそうになって…美作さんに…助けてもらった?」


今言った事が、夢なのか現実なのか確信が持てないまま問いかけると、少し困ったように、
「どこにいても危険に遭うのは、高校時代からの牧野の十八番みたいだけど、
 誰にも助けを求めないで、一人で飛び込んで行こうとするクセは、
 いい加減直した方がいいな」
と微笑った。


「美作さんにまで、迷惑かけてごめんなさい」


あたしは心底申し訳なくて、うつむいてしまう。
助けられたのだと言う安心感と、申し訳なさとで、不覚にも涙が頬を伝い嗚咽がこぼれた。
あたしが一度ならず二度までも、皆の前から姿を消した事でどれだけの心配をかけたのだろう。
それが美作さんの表情から痛いほど分かった。


「牧野が反省する気持ちは分かったから、もう泣くなよ。
 俺が泣かしたなんて、誰かに知られでもしたら…」


その時、この部屋にノックもなしで、誰かが乱暴に入って来た。
あたしはギョッとして思わず身構える。
美作さんは入り口とベッドの間を遮るように立ち上がった。


「何だ…司か。驚かせるなよ」


美作さんが軽く脱力したような様子で、もと居た椅子に腰掛ける。


「驚かせたのはそっちだろうが…」


どかどかと室内に入って来ると、あたしの方を一瞥する。


「子どもは?美夕は?」


道明寺があたしのベッドの間際まで来ると、早口で問いかける。
右手を軽く上げて、あたしの方へ手を伸ばそうとして…止めた。


「美夕は、金さんと外に散歩に行ってて…」


そう言いながらも、あたしの胸はズギリと音を立てて痛む。


「そうか…あきら。ちょっと」


道明寺が入り口の方を指差すと、二人はこの部屋から出て行った。







56.





俺は牧野の無事を確認すると、あきらを伴って牧野が休んでる部屋を出た。
デニスが、警察に引き渡す前に逃げたらしい。
先ほど、SPの熊田から連絡があった。


『司様、申し訳ございません。しっかりと縄でしばってホテルの室内に置いていたのですが、
 隙を見て逃げ出したようです。部屋には縄しか残されておりませんでした。
 本当に申し訳ございません』


熊田は武術に秀でている。
アイツが入り口でしっかり見張っていれば、ヤツが部屋から出て来たとしても、
こんな事にはならなかっただろう。
監視をホテルの従業員に任せた所が甘かった。
だがそれは、部屋を出た美夕の警護を優先させたが為に起きた事で、熊田のミスでは無い。
そもそも熊田の縄はそう簡単には解けないと思って油断した。
デニスのやつ、縄抜けのプロなんか?!

 
俺は苛立ちを隠す事が出来ないまま、ホテルの脇の木立の中に落ち着く。
遠くに白いベンチに座り、天草が美夕を膝に抱きながら、あやしているのが見えた。
俺は正視出来なくて、思わず目を逸らしてしまう。
すかさずあきらが「場所を変えるか?」と言うが、「いい」と手だけ振って応える。

先ほど近くの空港から、どこかの金持ちが小型ジェットを貸し切って、
ごり押しして飛ばせたと携帯に連絡が入ったから、多分ヤツは逃げ仰せたのだろう。


「お前の事だ。デニスが降りた先の空港で捕まえられるよう、手はずは整えたんだろうな?」


あきらが、さもそれが当然と言わんばかりに問いかける。


「まあ、昔の俺なら一も二もなくそうしただろうな」


「してないってことかよ」


前を歩いていたあきらが驚いた様子で振り返る。


「今捕まえるのは最善とは言えない。婦女暴行未遂じゃ弱いな。
 しかもここはカナダで、ヤツは国外に逃げている」


「そうかもしれないが…。灸を据える事ぐらいは出来たんじゃ?」


「ヤツはそんなに甘く無い。大丈夫だ。ヤツの行きそうな所くらい分かってる。
 そうじゃなくても近いうちに、ヤツの息の根は完全に止めるつもりだ」


「司…」


デニス…ヤツを油断させて、ゆっくりと周りから攻めて仕留めてやる。
牧野と美夕を危険に晒したおとしまえだけは、きっちり付けさせてもらうつもりだ。
もちろんそれが、未だ眠り続けている会長のためでも、ソフィアのためでもあると信じている。







57.





ソフィアは道明寺家の広いダイニングルームで、目の前のこのつまらない男の相手に
辟易していた。
つわりで気分が悪いと言って席を立ってしまおうか…とも思ったが、この男を招待したのは
夫であり、目の前の男が父の会社の取締役の一人と聞いては失礼をしてしまう訳にはいかない。
会議にもちょくちょく顔をだしているので、面識が無い訳ではないし。
夫がそばに居たときは二人で夢中で仕事の話をしていたので気が紛れたし、自分の父の会社の事で興味もある話題だったので、別段つまらないとも思わなかった。
でも夫は会食の途中で急な仕事が入ったと出かけて行ってしまい、事もあろうに去り際に
「ゆっくりして行ってくれ」と言う言葉とこの男を残し出て行ってしまった。
仕事なら一緒に出かけなくてもいいのか?とこちらが思ってしまうほど、夫の言葉通りに
男はゆっくり食事をしている。
急に夫の代わりのホスト役を仰せつかったのだが、何を話せばいいのか分からず、
当たり障りの無い話題を振ってみたのだが、男はその話題にはあまり乗って来ず、
ついには話題も尽きてしまった。

お互い無言のままデザートと食後のコーヒーが運ばれて来て、やれやれと
ソフィアが思っていた所で、今まで黙っていた男が口を開いた。


「ソフィア様は、10年後20年後のご自分がどんな風になられているか、
 お分かりですか?」


急に予想もしない話題を振られてしまい、ソフィアは驚くと同時に返答に困った。


「ミスターイゴール」


「イゴールで結構です」


「では、イゴール。10年後、20年後の自分なんて、自分にも誰にも分からないわ。
 こうなりたい、こうなっていたいと願う事は出来るけど…。そうでしょ?」


ソフィアは、自分でも当たり障りのない返答だと思う。


「では、貴方がこうなりたいと願っている事で結構です。
 お教え願いませんか?」


男は執拗に質問して来る。話題を変えようにも先ほどネタが尽きてしまったので、
代わりに話す事など無い。

ソフィアは仕方なく


「そうね、とりあえず会社の事を覚えて、一人でも仕事が出来るようになっていたいわ。
 このお腹の子も大きくなっているだろうから、子どもを愛し、尊敬されるような
 母親になっていたい」

それだけ応える。
イゴールはやれやれと言わんばかりに、大きなため息をついた。
目の前のこの男は自分の返答に、明らかにがっかりしている。
ソフィアは少なからず、不快になった。
でも、もう自分だって子どもではないのだから、不快な気持ちをそのまま
顔に出す訳にはいかない。
心の中では早く帰ってほしいと願いながら、目の前のコーヒーに手を付けてやり過ごす。


「ソフィア様」


「ソフィアで結構よ」


「ではソフィア。言いにくいのですが…。
 貴方はずいぶんと自分の事しか考えていらっしゃらない方のように私には見えます」


ソフィアはその一言で、頭にカッと血が上った。


「あなたに私の何が分かるというの?!」


思わず立ち上がり、怒鳴りつける。


「司さまが明後日、社外への発表に先立ってロスマン社の中期計画発表を
 全取締役会でなされます」


イゴールは激情したソフィアとは正反対の態度で、冷静に淡々と話す。


「それは私も聞いてるわ。それがどうしたと言うの?」


ソフィアは未だ激情したままだ。


「私には司様が、その後に我が社を去るような気がしてならないのです。
 いえ、確実に去ってしまうと確信しております」


「なん…ですって?」


ソフィアは呆然として、座っていた椅子に体を預けるように腰掛けた。


「司様はここ3ヶ月。ロスマン社の10年後20年後の事をずっと考えて仕事をしておられた。
 それはおそらく、ソフィア。貴方とそのお腹の中にいる子どものこれからの事を考えての事だ」


いずれ、自分の元から司が去ってしまうという事は、ソフィアにも分かっていた。
だがそれが、まさかこんなに早くなるとは思わなかっただけだ。

イゴールは続ける。


「ロスマン社長は未だ昏睡状態です。
 正直抜けてほしくは無いが、今、司様が居なくなれば、実質貴方がナンバーワンになる。
 もちろん全社員、貴方の支えになるよう努力します。
 でも、貴方自身にも変わって頂かなくては、社員は誰もついてきません」


ソフィアの頬には知らないうちに涙が伝っていた。


「ソフィア、誰かを頼るのは決して悪い事じゃない。
 でも頼り過ぎてはいけない。
 今、貴方が変わる時なのだ」


今まで冷淡だった口調が、最後だけ優しくソフィアの胸に響いた。





翌々日のちょうど正午に取締役会は開始された。
司が全取締役を順に見回すと、何食わぬ顔でデニスもそこに居た。
おとといカナダであった事を自分が知らないとでも思っているのだろうか?
知ってて、ここに居るのなら、よほど肝が据わったヤツなのか、ただ単にバカなだけなのか。
「まあ、いい」と司は思う。「ここにアイツが座るのは最後だ」と。


少し遅れて、イゴールに伴われたソフィアが入って来る。
腹部が隠れるくらいの長めのジャケットの暗めのスーツに身を包み、
ブロンドの髪をダークブラウンのストレートにしていて、
髪を寸分の隙もなく後ろに束ねたソフィアは、何故か明るいスッキリとした顔をしていた。
今まで、どこか翳りのある暗い表情をしていることが多かったのに…。
なるべくなら、妻の想い人が窮地に追い込まれる様子は見せたくは無かったのだが。

ともかく、役者は揃った。


「誰もが、自分の場所ですべき事をしている」


以前類に向かって言った言葉を心の中で反芻する。
これが全て終ったからといって、牧野と美夕を取り戻す事が出来るわけじゃない。

だが、今の俺をすべき事は、間違いなくこれだと思う。






 
58.





司とイゴールがまとめた中期経営計画は守旧派、革新派のどちらにも受け入れられる
ものだった。
その計画は付け入る隙など、微塵も与えないほど、綿密に練られた物だった。
一体それほどの時間がどこにあったのか。
この会社の「持続可能な発展」という目標は守旧派、革新派の共通の願いだ。
だから、取締役たちは一も二もなく賛成した。

デニスは歯ぎしりしていた。
この計画の実質的な経営者として指名されたのが、自分ではなく、守旧派、革新派のどちらにも
属していない、何の後ろ盾も無くライバルとさえ思っていなかったユーゴ出身の男だったからだ。
この計画は20年というロングスパンを視野に入れている。
この計画が会社の主軸となれば、間違いなく20年はこの男の指示に従わなくては
ならないだろう。
そんな事は、プライドの高い自分にとっては我慢ならない。

こんな会社やめてしまおうかという思いが、一瞬心の中に浮かんだが、ちょっと待て、
冷静になれともう一人の自分が言う。

会長の娘であるソフィアをイゴールはないがしろにしないだろう。
イゴールは会長に返しきれないほどの恩があると聞いている。
ソフィアのお腹の子は自分の子なのだし、ソフィアをこちらに取り込んでいる以上、会社が完全に
軌道に乗って、道明寺財閥からうまい汁を絞るだけ絞り取ったら、早く道明寺を追い出して、
子どもの後見人にソフィアが自分を指名すればいい。

そう構えていたら、道明寺司がとんでもない事を口にした。
自分は今日限りで取締役を降りて、妻と離婚し、ソフィアとイゴールの二人を代表取締役に
指名すると言う。
ソフィアはともかく、あのイゴールが代表取締役に治まるのは絶対まずい。
ソフィアはじきに産まれる子どものために、仕事に集中させることは難しいだろう。
実質あの男がナンバーワンになる。
代わりに自分を押してもらおうにも、あの依存心の高い、世間知らずな女が
どこまで強く言えるか…。

一体どうしたらいいのか。デニスは額に汗がにじみ出てる事にも気がつかなかった。







他の取締役たちはどよめき、それぞれに様々な不安や不満を口にする。


「私の仕事は、前会長が倒れた後、崩れそうになったこの会社を軌道に乗せる事でした。
 最近は会社の利益も、前会長が倒れる以前の業績よりも32%上がったと聞きます。
 その目標が達成された今、私の役目は終わりました」

司は顔色を変える事なく、淡々と話す。
次に話そうとした時、ソフィアが近づき司の話を止めた。

ソフィアにはこの事は何も話していなかった。
自分がこんな事を言い出して、きっと驚いただろう。
ソフィアには責められても仕方がないと思っていた。
司は覚悟を決めていたのだが、彼女は予想に反して穏やかな顔をしていた。


「司さん…」


ソフィアが進み出る。


「ありがとう」


と、ゆっくり右手を差し出す。

ソフィアから出た意外な言葉に、思わず司は固まる。
でもソフィアから「ほら早く、手を出して」と小声で言われ、慌てて右手を差し出した。
二人は固く握手をすると、今度はソフィアが正面に立ち、取締役たちを見回した。


「先ほどは会議に遅れまして申し訳ありませんでした。
 実は今朝、父が目を覚ましたと連絡があり、病院に行っておりました」


今度は歓喜のどよめきが起きる。


「皆さん、ありがとう」


ソフィアは嬉しそうに周りを見渡す。そして、司を見た。


「私と彼は正式に結婚いたしましたが、正しい物ではありませんでした。
 このお腹に居る子どもも、彼の子どもではありません」


突然彼女が言い出した言葉に、他の取締役たちも、デニスも司も驚いた。


「この子は私一人の子どもです。私が一人で育てます。
 父はまだ退院は難しいですが、父の娘である私が、ここにいるイゴールの手を借りながら、
 この会社をやって行きたいと思っています。
 皆さん、宜しくお願いします」


誰からとも無く拍手が起こる。
ソフィアはありがとうと微笑んだあと、静かに手を挙げて静止した。


「父が意識を取り戻して、分かった事があります」


そういうと、ソフィアの表情が途端に固くなる。


「父を襲った犯人の名前を、父が口にしたのです」


ソフィアは目を伏せてひと呼吸すると、


「残念です。デニス。貴方を信じていたのに」


そういって、デニスの方を見据えた。

デニスはガタンと椅子の音を立てて、立ち上がった。


「下に警察がいるわ、デニス。自首してちょうだい」


ソフィアは毅然と、かつての恋人に言い放った。

デニスはふらりと立ち上がると、「そんなことがあるわけない…」と繰り返し
呪文のように唱えていた。

だが、その顔は蒼白で先ほどまで見られていた自信に満ちた表情とはほど遠い。
他の取締役たちはデニスに冷たい視線を投げ掛ける。


「何だって言うんだ!俺が何をしたって…」


「お父様は何度も危険な目に遭っていたの。あのときが最初ではなかったのね、デニス。
 父は独自に調査して色々証拠を掴んだみたいだけど、決定的な裏付けが無かった。
 父は車に轢かれる直前、運転席に座るあなたの顔をしっかり見たのですって」


「そんなバカな!あの事件のあとすぐ、犯人は逮捕されてるじゃないか。
 そんなことは今まで昏睡状態だったヤツの妄想だ!信じる方がバカだ」


デニスは吐き捨てる。


「犯人の男はもともと自分は誰かにはめられたんだと言ってたらしいわ。
 彼は以前にも薬物を使用中に事故を起こしてるの…知ってるわね?
 だから彼を身代わりに選んだんでしょ…」


ソフィアは淡々と続ける。


「幸運な事に、父の意識はハッキリしているの。
 大分前の事故なのに、昨日の事だろう?って、お医者様もビックリするくらいよ。
 それに、他の状況証拠ももう少し裏付けをとって、警察に提出するつもりよ」


あくまでソフィアは冷静だ。


「さあ、自首して頂戴。私と父のあなたに対する最後の優しさよ」


「嘘だ…。嘘だ…。こんなのソフィアじゃない」


絶望の表情を浮かべながら、デニスは部屋を出て行った。


ソフィアはその様子を見て、一つ静かなため息をついた。


「ソフィア。会長が意識が戻ったっていうのは…」


司がソフィアの方に近づく。


「ええ、本当よ。あなたに知らせるのが遅くなってしまって、ごめんなさい」


「いや、いいんだ。だからか、今日の君の表情を見て別人かと思ったよ」


司は頭を掻く。


「別人になったのよ、私。
 もう誰かに甘えたり、頼りにするような弱い自分は卒業するわ。
 今まで、ありがとう。司。私もあなたもこれから前に進まなきゃね」


ソフィアが晴れ晴れとした表情で微笑った。


「ああ…」


司の心も窓の向こうの青空に開放されたようだった。










to be continued...
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