螺旋模様

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act.25

written by  なお*なお




61.





つくしはしばらく呆然としたまま、状況を把握出来てなかった。
でも徐々に自分の置かれている立場が分かって来ると、膝がガクガクと震え出し、
手の指の先から痺れにも似た震えが来て、暑くも無いのに背中に汗が湧いてくるのが
分かった。

デニスは右手に拳銃をもったまま、ハンドルを握っている。

今までつくしの世界とは、ほぼ無縁の物だったものが、この見慣れた車内で
異様な光を放っていた。


車は郊外の方へと走り出す。
通り過ぎる車も、歩いている人たちも徐々にまばらになって来る。
信号で止まる事は稀にあっても、後部座席に美夕を置いたままでは、ドアを開けて
自分だけ逃げる事も出来ない。

万が一、車内から美夕と一緒に脱出できたとしても、
幼い子どもを抱えたまま銃弾から逃げ切れることが出来るだろうか?

空港を出たあとすぐに、ちゃんとタクシーに乗っていれば、こんな事にはならなかった
のかもしれないという後悔が渦となって押し寄せる。自分が甘かったために美夕を今、
危険な目に遭わせてしまっているのだ。

そう思うと、泣きそうになる。
でも寸前の所でこらえた。
まだ全ての希望を捨てた訳じゃない。



「金さんを…どうしたの?」


つくしは喉をごくりとならして、どうか声が震えていませんようにと祈りながら、
空港を出てからずっと気になっていた事を運転を続けるデニスに質問した。


「頭を殴っただけだ。別に撃っちゃいない。
 俺の見た所、ヤツは道明寺とは無関係だ。
 だから置いて来た」


ゆっくりと英語を話すその姿勢は、狂っているとも憎悪に溢れているとも思えない。
この表情だけを見たら、普通のビジネスマンが運転しているだけのように見える。
でもその無表情がつくしの恐怖を増大させる。


「だったら、あたしだって無関係だわ。降ろして」


つくしは、どうかこの人が後ろで眠っている美夕に気付いていませんようにと願いながら、
相手を刺激しないようにゆっくりと低めの声で懇願する。


「あんたとその赤ん坊は無関係とは言わないだろう。
 その子は道明寺の子で、あんたはその母親だ」


持っていた拳銃で後ろを指し、つくしはビクッと体を震わせる。
その様子がおかしかったのか、デニスは右の口角を上げて軽く笑う。

つくしはこいつが美夕に気付いていなければいいという最後の希望も打ち砕かれ、
崖から突き落とされたような気分になる。


「道明寺は俺からすべてを奪った。
 だから今度は俺がアイツから奪ってやるんだ」


小声のため、かろうじて聞き取れ理解出来た英語は、つくしにとって、
とてもおそろしい物だった。







62.





熊田は雇い主の命令通り、天草母娘の警護に当たっていた。
天草母娘の警備に当たるのは熊田一人に与えられた極秘任務だった。
警備に当たる人物は、雇い主にとっては最重要人物なのだが、雇い主が警備に
当たらせているという事は決してその母娘、特に母親の方には知られてはならない
という命令が出ていた。
なので、よほどの事がない限り、誰にも、とりわけその母娘の周りの人物には
気付かれないようにしていなければならなかった。

24時間警備に当たるのは自分一人だけという仕事は決して楽な物ではなかったが、
雇い主が自分を全面的に信頼し任せているのだと言う事は十分理解していたし、
自分も全力で応えなければならないのだという気持ちでいた。

だが、この職務は母娘が常に一緒にいるという条件下で成り立っている。
どちらに優先順位があるのかは、ケースバイケースによって判断しろと雇い主から
言われていた。

この前は珍しく家に残った赤ん坊と出かけた母親とで、どうしても自分で身を
守れない方を優先した。
赤ん坊が居る自宅の警護を、応援を呼んで固めてから、急いで母親の方の警備に当たった
わけだが、その時はすでにデニスが母親に接触したあとで、遅かった。
結局、自分が飛び込む寸前で助けたのは、自分ではなく雇い主と母親の共通の友人だった。
そしてこの母娘の警護にあたるという職務を一人でしなければならないという厳しさを
痛感した事件でもあった。

そして今日、目の前でその母娘が乗った自動車が、よりにもよって自分がこの前
取り逃がしてしまった犯人によって乗っ取られてしまった。
熊田はすぐ車に乗って追跡する。
でもすぐ後ろを走っていると相手にバレてしまうので、あらかじめ天草家の車に取り付けて
あった発信機を頼りに、少し距離を置いて追跡する。
一応、何か遭った時のために応援にすぐ来るように手はずは整えたが、母娘に知られないまま
今日をやり過ごす事は出来ないだろうと、熊田は覚悟していた。
そして、あの母娘を助け出すためなら、自分が犠牲になろうともいとわない覚悟も。







63.





つくしは、もうこの相手には何を言ってもダメだろうと諦めていた。
でも自分と娘の命を諦めたつもりは毛頭無く、どこかで隙が出来たらいつでも逃げ出そう、
例え自分がダメでも、この子だけは助けなければと考えを巡らせていた。

マザーズバッグの中には、子どものおむつや着替え、ぐずったときのおしゃぶりや
おもちゃばかりで、何も役に立ちそうなものは入っていない。
携帯も日本を出る時に解約したまま、家にじっとしている生活では必要も無いだろうと思って、
持っていなかった。
さすがにこの前みたいな事があってからは、持たなければと思っていたが、
日々の暮らしの中、ずっと後回しにしていた。

最後の希望は、ある。
ただそれがいつも曖昧で、果たしていつからいたのか。
今までなかなか気付けなかっただけで、今日もここに居てくれていると信じたい。





「子どもを連れて降りろ」


デニスが車を停めて、命令口調でつくしに言って来た。
周りを見渡すと、舗装もされていない、ほとんど獣道しか無いような森の中だった。

つくしは言われるまま後部座席に回ると、まだすやすやと寝息を立てている娘を
起こさないように、ベビーシートから持ち上げる。そして、デニスに向き直った。


「ねえ、あたしはあなたについて行くから、この子をここに置いて行ってはダメ?
 車の中とは言わないわ。この草むらの中でもいいの」


つくしは子どもを地面に下ろす動作をしながら、必死の表情とたどたどしい英語で
デニスに訴えかける。

でも、そんなつくしにもデニスは「ダメだ」と冷たく言う。


「この子はこんなに小さいのよ。自分で助けを呼びに行くどころか、歩いて逃げる事も
 出来ないわ。もし、あなたが戻って来ても、ここにこのまま置いて行ったら、
 誰にも気付かれないままここに居るだけよ。
 あたしはどうなってもいい。あなたの言う通りにするわ。でもこの子だけは…お願いよ」


つくしの今にも泣き出してしまいそうな必死の表情にさすがのデニスも根負けした。


「まあいい。子どもは置いて行け。野犬に食い殺されても、俺のせいじゃないからな」


そう言ってデニスは拳銃を持っている手で地面をさす。

つくしはデニスに背を向け、持っていた膝掛けをぱさりと地面に落とし、腰を屈めながら
ゆっくりと赤ん坊を下ろした。


「熊田さん。そこに、熊田さんいるわよね」


つくしは小さな声で向かいの茂みに向かって日本語で問いかける。


「何をしてる!」


デニスがすかさずつくしの後ろから叫び出す。


「子どもに別れを言っているの。少しくらいいいでしょ?」


つくしは逆切れとも言えるような口調で背後に向かって怒鳴りつける。
日本語が分からないデニスはつくしが何を話しているのかわからない。


「まあ、せいぜいその子に別れの言葉を言ってやるんだな」


デニスは胸ポケットから煙草を取り出し、一服し始めた。



「美夕…」


つくしは優しく囁きながら、美夕の小さな手を握る。
人差し指で美夕の手の甲を何度か往復すると、


「熊田さん。あたしの事は構わないで。あたしたちが行ったら、この子を連れて逃げて」


と静かに告げた。


熊田はビクッとすると、茂みの隙間からデニスに決して気付かれないように、
気配を殺してのぞく。

つくしはしゃがみ込んだまま、赤ん坊に視線を向けたままだ。


「お願いよ。美夕だけは助けて。あたしを助けようなんて思わなくていいから」


そういうと、つくしは静かに立ち上がりデニスの方へ歩いて行った。

去り際に残した「ありがとう」という言葉は、熊田に言った言葉なのか、
美夕に言った言葉なのか。
それともここには居ない、他の誰かに向けて言った言葉だったのか…。


つくしとデニスが森の闇の中に消えたあと、熊田は草の中ですやすやと寝息を
立てて眠る赤ん坊を抱き上げた。

この子を抱えていては、例え自分でもあの母親を助ける事は出来ない。
それを見越して、あの母親は最後の言葉を自分に残して行ってしまったのだ。
自分が後で後悔しないように。

そう思うと、熊田は男泣きに泣いた。熊田の涙が頬を伝い、赤ん坊の額に落ちる。

その刺激で赤ん坊は起きてしまったのだが、寝起きにも関わらず赤ん坊は怯えるでも
泣き叫ぶでも無く、代わりに熊田の頬をぺちぺちと叩いていた。










to be continued...
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