錆びつく森

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act.13

written by  セイラ




25.





「・・・・野さま・・・・・牧野さま。」


頭がぼんやりする。

飛行機に乗る時ってあまりいい思い出がないから、
寝たつもりでも意識が緊張しちゃって良く眠れないのよね・・・・・。

その反動で、地面に足が着くともう何処でも眠れてしまう。
丸一日近く眠っていたはずなのに何か心に引っ掛かる気がするのは・・・・
きっとあいつが、道明寺がこのN.Y.に居るから。




道明寺には、あいつがあたしの会社に疑惑の微生物の調査で帰国した時から会っていない。
だから、奥さんに呼び出されてN.Y.へ戻って行った道明寺の
とんぼ返りの理由は判らず終い。
ロスマン会長やその周囲のニュースが何も流れてこなかったところをみると、
取り立てて大した事では無かったのか、それとも・・・・・その真逆か。


もしも・・・・もしも何か重大な事が起こったのだとして
その情報がブロックされているのならば、
当然、あたしの様な一般人が知り得る内容では無い。
あいつが生きているのは、そういう世界。





それにしても、あの再会は予想外だった。
ロスマン社の名前を聞いた時から、何らかの形であいつに関わる事になるかも
しれない、とは思っていたけれど、まさか会社の経営代表者である道明寺本人が
わざわざ日本に出向いて来るだなんて、予想だにしなかった。



以前と変わらない道明寺。
でも確実に変わってしまった道明寺。
だってあいつはもう、結婚して奥さんとの人生を歩んでいる。
事の重大さもあるのだろうけれど、あいつがあれだけ真剣に取り組むのは、
それが奥さんの実家に関わる事だからなのだろう・・・・・。





胸が痛い。
もう自分の心の傷は癒えたと思っていたのに。


このまま現実に目を瞑って時間が過ぎてくれれば、
遠い存在になってしまった道明寺に会うこと無く歳月を重ねて、
いつかあいつとの事も全て夢だったと思える時が来るかもしれない・・・・。
そう、思っていた・・・・ううん、そう願っていたのに。


でも、昨日おぼろげな意識の中で聞いた道明寺の声に、やっぱりあたしの心は揺さぶられ、
顔を見る事が出来なかった分、彼の声が余計に切なく耳に残る・・・・・。




考えない様にしなきゃ。

あたしはここに、仕事で来てるのよ。
しかも例の件の詳細をまとめ上げた社員として・・・・・。


でも、お姉さんが言っていた、あたしを守るって一体どういう事・・・・・?





起き抜けでぼんやりとした頭の中の論点は定まるはずも無く、
あたしの思考は行ったり来たりを繰り返す。
しばらくして、ただひたすら自分の膝の上の拳を見つめるあたしに、
同乗していたマートス氏が声を掛けてきた。


「牧野さま、弊社に到着致しました。」

「あ・・・・はい。すみません、だらしなく眠ってしまって・・・・。」


「いえ、何かとお疲れでしょうから。」




マートス氏が言った、『何かと』という言葉をあまり深く考えもせず、
とにかく初対面の人の前で眠ってしまった恥ずかしさに身を縮ませながら、
あたしは促されるままにそそくさと車を降りた。


見上げたロスマン本社のビルは、その権勢を誇示するがごとく天にも届くほどの高さで
そびえ建ち、あたしは案内されて乗り込んだシースルーの高速エレベーターで
またたく間に眼下に小さくなる車や人々から自分が切り離されてゆく感覚を味わっていた。





道明寺は・・・・・自分の財閥だけで無く、こんな凄い会社まで取り仕切っているんだ。

昔、懇意にしてくれる会社の会長さんが居るって、
その人との付き合いは勉強になる事ばかりで、N.Y.のビジネス社会の中で
唯一気を許せる人だって嬉しそうに話していたっけ・・・・・。
あの頃は、あたしもまさかそれがあのおじさんだとは思いもせず、
彼が道明寺とあたしの人生にこんなにも関わりを持つ存在になるだなんて
想像もしていなかった。


世の中、こんなに沢山の人間が居るっていうのに、
人と人の繋がりは思いがけず、何て近しいものなんだろう・・・・・。



上昇するエレベーターの中で、マートス氏の耳に届かない様気をつけながら、
あたしは小さくため息をついた。







26.





会議室では、同じくN.Y.入りした同じ会社の技術員の皆がすでに着席していた。


どうやら社の中で一番最後だったらしいあたしがどこに座るべきかと
部屋の中を見渡していると、飛行機の中で隣りあわせていた同僚が『ここだよ』と
小さく手招きして呼んでいる。

急いでその隣りの空いた席に座ったけど、この席って、最も上座に近い席じゃないの。
あたしがこんな席に座っちゃっていいんだろうか・・・・。



そう躊躇するあたしに、隣りの席の同僚が小声で耳打ちしてきた。


「牧野さん、昨日はどこに泊まったんだい?」
「え・・・・?あ、あの、こっちに知り合いがいて迎えに来てくれてたものだから・・・。」

「迎えって、昨日のリムジン?車の前に立ってたのも、いかにも『秘書』って
 感じの人だったじゃないか。牧野さん、N.Y.にどんな知り合いが居るの?」

「えっと、そ、それは・・・・・。」



まさかここで、出向を命じられた道明寺財閥の身内が知り合いです、
なんて言える訳がない。
だからあの手の車は目立ち過ぎて困るのよ・・・・・。




その時、どう返答したらいいものかと戸惑うあたしを救うかのように、
ロスマン社の人達が会議室に入って来た。


答えを引出し損ねて少し不満げな顔をする同僚に、
あたしは内心『助かった』と思いながら、小さな笑顔を返して誤魔化した。




「皆さん、お待たせ致しました。ただ今からビオラブ社と弊社の第1回合同会議を
 始めたいと思います。
 まず、こちらの責任者から、今日の会議の概要をご説明がてらご挨拶を・・・。」


『責任者』という言葉に、あたしの心臓が跳ね上がった。
もしかして、ここに道明寺がやって来る・・・・・?



心の中は不安でいっぱいのはずなのに、同じその心の片隅で僅かな期待が顔を出す。
あたしはコントロール出来ない自分の感情を戒めながら、恐る恐る視線を上げた。



けれど、司会らしき人に紹介され、『責任者』として立ち上がった男性は、
今朝あたしを迎えに来てくれた、ジャック・マートス氏だった。

マートス氏は、日本人のあたしたちに向かってややぎこちないお辞儀をし、
おもむろに口を開いた。


「ビオラブ社の皆様、この度は急な辞令にさぞや驚かれた事と思います。
 また、遠路の移動でお疲れのところすぐに出社頂き、大変申し訳無く思っております。
 しかしながら皆様もご承知おきの通り、今回の事は我が社でも緊急を要し、
 尚且つトップレベルの機密保持を有するものであります。
 どうぞ皆様にもその旨お汲み取り頂き、決して他言される事のありません様、
 ご注意頂きたく・・・・・。」



仕事の関係上、専門用語を始めほとんどの英語は聞き取れるものの、
今回は事の重要性を要するということで取り違いの無い様に、と通訳の人がついていた。
それが同時通訳というあたり、まさに事態が切迫したものである事を思い知らされる。






初回の会議は、ロスマン社とビオラブ社が当時の業務関係(これは主にあたし自身が
まとめたのであたしからの説明になったけれど)と、実験の内容確認などを互いに
確認し合うものだった。




うちの会社に持ち込まれた微生物が画期的な発見である事を知らなかったロスマン社。
それを自社の断熱塗料に開発して花沢物産との事業に持ち込んだロスマン社前社長、
サム・ラスカン氏。
そして事故に遭ったロスマン会長・・・・・。


凡人のあたしには、話が複雑かつスケールが大き過ぎて、
頭の中がパンクしそう。


あたし達、日本に帰れるのだろうか・・・・・?







27.





「失礼致します。社長、調査の報告に参りました。」



入室して来た秘書の言葉に、別の案件の書類にサインをしていた俺は手を止め、
決済済みのクリアケースにその書類を放り込むと、顔を上げた。

すると俺と目の合った秘書は改めて頭を下げ、話を切り出した。


「まずは日本より到着されたビオラブ社の社員の方々ですが、
 皆様、無事にN.Y.へ到着、並びに今朝こちらへ出社され、会議に入られました。」
「そうか。・・・・・あいつは?」

「はい、牧野さまもマートスが直接お迎えに上がり、社にお連れ致しました。」



俺からの問い掛けに顔色ひとつ変える事無く、秘書が答える。
この秘書・・・・・斉藤は、俺がロスマン社の取締役に就任する時に
道明寺から連れてきた、いわば俺の右腕。

言葉多く語らなくとも俺の思惑を読み、即座に切り返す頭の良さをSPだけにしておくのは
勿体無いと思い、秘書に抜擢した。
俺の勘が相したか期待以上の仕事をし、こと、今回の件・・・・・、
図らずも牧野が絡んでいるこの件に関しては、細かな配慮を行き届かせてくれている。



そんな斉藤が、現在病床のロスマン会長の秘書の中でも映え抜きの逸材として挙げたのが、
ジャック・マートスだった。

彼ならば、身を粉にしてでもロスマン社再建の手助けに労を惜しまないだろうという
斉藤の言葉通り、面談をしたマートス本人は、会社に対する深い思い入れと、
会長への敬意をひしひしと感じさせる人物で、この人物なら、と
斉藤同様、ロスマン側の俺の右腕として働いてもらっている。

今回の事で、牧野と俺が知り合いだということを話しはしたが、
その話の中から、何も言わないけれど、彼なりに何か感じ取ったのかもしれない。






今回、ビオラブ社でこの件に関係する者全員を出向という形でこちらに呼び寄せた。

先日マリに言った、『もう被害者を出したくない』というのは、もちろん本心。
最もロスマン社に近いところ・・・・こちらの社内で事実確認に協力してもらう事と、
その間、世界最新の設備を誇るロスマン社の研究所で仕事を、という出向理由は、
建前であり正当理由でもあるが、向こうの社員を納得させるのには充分だった。

けれどビオラブ社の技術員にロスマン社で働いてもらう事は、
こちらの技術員の刺激にもなるだろうという目論みもある。
こちらの技術員が、ビオラブ社の社員の細やかな仕事ぶりがいかに優れたもので
あるかを知るいい機会になるだろう。

何せ、日本人は世界でも有数の勤勉・勤労民族だからな。
ビオラブ社がわずかな社員数でその実績と信頼を評価されているのが何よりの証拠。




牧野を道明寺財閥の本部出向、としたのは総二郎からの苦言もあった様に
強引と言われても否めないが、事と次第によっては日本に居たままでは
あいつが一番危険かもしれないから、俺の目の届くところで牧野を守りたかった。

ただしマリの反感をかってしまったという誤算を心に留めておかなければならない。




そこまで考えて、俺は昨日の牧野の様子を思い起こした。


ゆうべ見た牧野の寝顔には、疲労と緊張の色が浮かんでいた。

・・・・・当然か。
いくら会社命令とはいえ、こんなところまで呼びつけたのが俺だと
バレているんだから。
空港まで迎えに行ってあいつを連れて来た姉貴に腹が立って怒鳴ったりもしたが、
正直なところ、N.Y.に着いた牧野の姿を見てまずはひと安心した。



こっちでSPをつけてやれば、牧野の身の安全は確保される。
ロスマン社の事で牧野が危険な目に晒されるだなんて、考えただけでも身震いがする。




海を隔てず、あいつの無事な姿を見ていられる・・・・・。
でも、それこそが建前じゃないのか?
俺は、自分自身が牧野をそばに感じて居たいだけじゃないのか?



俺は思考の渦にのまれそうになる頭を軽く振った。



何を考えてるんだ。

俺は、あいつの想いを置き去りにして結婚してしまった身だというのに・・・・。





「社長・・・・宜しいでしょうか?」

「あ、あぁ。悪い、始めてくれ。」




俺の考え事が途切れたのを見計らったかの様に、
斉藤が話を切り出した。



「まず元バイオサイエンス部長のリン・ウエスト氏ですが・・・・・、
 前社長と男女の仲にあった様です。」
「ふ、ん・・・・・有りがちな話だな。
 前社長に利用されるだけ利用されて・・・始末されたか。」


「ですが、飛行機事故というのは早々起こそうと思って起きるものではありません。
 かなり組織的に動かねばならないかと・・・・・。
 前社長の周りでは、それほどの人数が動いている様子もありません。」



そこまで言って、斉藤は手にしていた書類を俺のデスクに置くと、
関係箇所を開いて示した。



「リン・ウエスト氏が死亡した飛行機事故は作為的なものでは無く、
 あくまで飛行機の欠損が原因であったことが事故報告書にも記載されていました。
 更に調査を詰めましたが、サム・ラスカン氏は元々彼女をそこまでどうこうする
 つもりは無かった様です。しかし、彼女の方が何かを脅迫材料にして、彼に結婚を
 迫っていた事が掴めました。」

「何か?・・・・・あの微生物に関係する事か。」
「恐らく・・・・・。」






2年前の7月にビオラブ社が微生物の報告レポートをロスマン社に提出したのと
ほぼ同時期に解散になったバイオサイエンス部。
それから約半年後にバイオ開発部が出来るのと同時に、リン・ウエストは退社している。
交渉・契約・支払いは全てウエストが一人で担当し、
再開されるまで書類や資料、果ては菌株の保管までも不十分だったといわれる


ロスマン社の研究所で、一行だけ『不活性』との報告が残っていた
委託分析された痕跡のある微生物。
そんな微生物のその後など、誰が関心を寄せる・・・・・?

サム・ラスカンがウエストを言葉巧みに動かし菌株を盗み出させ、
さもS社から持ち込まれたかの様にイギリスの研究所に分析させたとしても、
ロスマン社でそれを知るのはウエストただ一人。
そしてそのウエストをもロスマン社から切り離してしまえば、
全ては闇の中に葬り去られてしまうはずだった。
そして不幸にもラスカンには都合のいいように事故が起こった・・・・・。





「それから、この件に関わったビオラブ社の業務担当者ですが・・・・。」



腕組みをして考え込む俺に、斉藤が言葉を続ける。



「こちらは、再調査の結果、カルテが改ざんされていることが発覚しました。
 当時の担当看護士によれば、記載されている薬の通りの治療であれば起こり得ない
 症状が、たびたび見受けられたとの事です。
 その症状というのが、先日社長が東京に出向かれている間に起こったロスマン会長の
 一時的な症状に極似していまして、看護士に担当していた医師の特徴を聞いてみましたら、
 会長に薬を入れに来た医師と同一人物である事がわかりました。」




この報告には、俺も驚いた。
恐らく、とは思っていたが、やはり会長を亡き者にしようと動いている人物がいる。




「その医師を見つけ出せ。何としてもだ。」

「・・・・・承知しております。ただ今、調査中です。」






それから斉藤は自分のファイルを捲って言った。


「ロスマン会長は、今回の件を感づいていらしたのかもしれません。」
「どういう事だ?」

「会長と社長が事故に遭われる10日前、会長は弁護士と接触されています。」
「何だって?それは・・・・・。」


「解散したバイオサイエンス部がバイオ開発部として再開されるのに、
 当時マートスも関わっていました。資料を整理している時、彼ひとりがあまりにも
 簡素な報告を不審に思い、独自に調べていたそうです。
 彼からの話を受け、調査を始めた会長がビオラブ社の名前を知ったのが、
 弁護士に会われた更に1週間前でした。」





ラスカンは会長の動きに気付いて、とうとう会長本人にまで手を下したのか?
そうすれば、マートスは恐れを成して口を閉ざすとでも・・・・・?




しかしラスカンは重大な過失を犯していた。
微生物の培養実験には、技術員が動くのだという事・・・・・。
いくらリン・ウエストとビオラブ社の業務担当者、
そしてロスマン会長を黙殺したとしても、人の口に戸は建てられない。
あの実験に携わったビオラブ社の技術者たちは、明確にその実験を覚えていた。


ラスカン本人がわかっている通り、それほどこの微生物の発見は『画期的』なもの
だったのだ。





ロスマン社がこの微生物の分析を委託したのがビオラブ社で良かった。

あまり大きな研究所では、全社員に知れ渡るほど
大きな関心を以ってして取り上げられなかったかもしれないし、
新入社員である牧野の耳にまで届かず、あいつを通じて総二郎の耳に入り、
ひいては俺まで伝わることも無かっただろう。

でもその為に、またあいつを厄介ごとに引き入れてしまったのも事実。





牧野には、幸せになって欲しい。
俺がこの世界で生きている以上、
あいつを関係のない事に巻き込んでしまうかもしれないという不安が、常にあった。
俺から離れて、あいつは平穏に暮らしていけると思ったのに・・・・・。


俺とあいつは・・・・・どうしても関わってしまう運命なのか?







28.





N.Y.に来て、2週間が過ぎた。


日本から出向して来たうちの会社の人間はあたし以外が皆技術員としてなので、
調査の傍ら、ロスマン社の研究所での仕事に携わっている。
研究所といえば、企業秘密であろう設備や実験資料もあるはずなのに、
惜しげも無く公開してくれるロスマン社に皆感嘆し、
嬉々として仕事に励んでいる。




初めはあたしが業務担当として道明寺財閥の本部に出向するだなんて、
筋違いだと思っていた。

実際、調査の対象である現物がS社の特許として向こうの手の内にある以上、
こちらで出来るのは、ひたすら書類上での調査。
しかも例の微生物は、こちらの研究所では元々無かったも同然の扱いで、
資料すら乏しい。
そうなると、あとは人海戦術に頼るしか無い。




時々当初の研究の過程での確認の為に技術員の人に出向いて来てもらったり、
(何故かあたしが向こうへ出向くことは許可が下りなかった)
コピーして持って来た膨大な資料ではまだ足りなくて、
日本の室長に追加資料をFAXしてもらったり・・・・・。
あたしも、それなりに・・・・いや、結構忙しい。


でももしこれでS社の現社長の企みが明らかになって
あの微生物に関する権利が正当な持ち主・・・・恐らくロスマン社に戻れば、
会長不在で不安定且つ沈みがちな会社は、その膨大な利益と共に息を吹き返すだろう。



あたしは・・・・・会社としてもあたし個人としても、ロスマン会長の手助けがしたい。
結局手放す事になってしまったけれど、あたしに人生のグッドラックチャームを
握らせてくれた、あの時のおじさんの為にも。









今日は重役専用のエレベーターがメンテナンスの為に2時間ほど休止している。
その為、一般社員は重役と乗り合わせそうになったら、
そのエレベーターをやり過ごすよう通達されている。




重役、か。
道明寺とかち合っちゃったらどうしよう・・・・・。


とは言っても、ここは道明寺財閥N.Y.本部。
あいつが居ても、おかしくも何ともない。
ま、2時間の間で、秒刻みほどの忙しいスケジュールをこなしているであろう道明寺に
偶然会う事なんて、無いだろうけど。








・・・・・無いはずだったのに。
神さま、こんな悪戯な偶然なんて要らないのよ。





2冊の分厚いファイルを抱えて俯き気味にエレベーターを待っていたあたしの前で、
ポーンという軽快な音と共に、扉が開いた。

視界に入ったオーダーメイドの1点ものであろう高そうな革靴に顔を上げたものの
相手の顔は見えず、更に少し目を上げて見た視線の先に・・・・・道明寺が居た。





N.Y.に着いてから初めて会う道明寺。
驚いて目を見開くあたしとは対照的に、
ほんの少し目を細めただけで冷静そのものの彼からは、
東京のビオラブ社で偶然会った時の様な感情の起伏など、微塵も伺えない。




早く、この状況から逃れなきゃ。



「・・・・・失礼しました。」



そう言って次のエレベーターを待とうと頭を下げるあたしの頭上に、
道明寺の低い声が降った。


「構わない。乗りたまえ。」





道明寺の後ろに控える秘書らしき人も、小さく頷いてあたしに乗るように、と
促してくれている。


あれ?この人、どこかで・・・・?

見覚えがある様な無い様なその人も気になるけれど、
いつまでもこのままエレベーターを止めておく訳にもいかない・・・・・。
あたしは道明寺を始め、エレベーターに乗っている人たちに一礼をすると、
壁に羅列する数字盤の前に身体を小さくして立った。






息苦しい・・・・・。

誰も言葉を発しないエレベーターという名の箱。
空気だけが、やたらと重い。
何だってこういう時に限って他に誰も乗って来ないんだろう。
地上までの時間が、まるで永遠に続くみたい。



あたしの斜め後ろ、エレベーターの中央に立つ道明寺の存在感に押し潰されそう・・・。




あたしは自分の足元を見つめるふりをして、ちらりと道明寺に視線を動かした。





  道明寺、相変らず忙しそうだね。


  ちゃんと食事してる?
  自分のベッドで眠ってる?


  ・・・・・奥さんと、幸せに暮らしてる?
  あたしが大好きだったその腕で、奥さんを抱き締めて眠っているの・・・・・?





そこまで思って、あたしは自分の胸の奥がキリキリと痛むのを感じた。

知らない事にほど良く働く想像力という人間の思考が、呪わしい。
自分の場所になるはずだったそこに世界中から認められて居られるその人に、
あたしは激しく嫉妬している・・・・・。






どこまでも続くかと思われたエレベーターが1階に着き、
道明寺の後ろに控えていた2人のSPが先にロビーに降りて素早く警護の目を光らせる。

反射的に『開』のボタンを押したあたしの横を、道明寺は何も言わずに通り過ぎ、
続いて秘書の人があたしに軽く会釈をして降りていった。





誰も居なくなったエレベーターの中にほのかに残る、
昔と変わらない道明寺のコロンの香りに、あたしの身体は動けなくなってしまった。




こんなに近くに居るのに、
あたしは彼に触れる事も出来ない・・・・・。






足を踏み出して立ち去っていく道明寺の背中が、
あの時、このN.Y.のメープルで別れた日の背中と重なって、
エレベーターの中でファイルを抱えたままズルズルと座り込んでしまったあたしは、
どうしようもなく涙が溢れて落ちるのを、止める事が出来なかった。










to be continued...
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