錆びつく森

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act.16

written by  みや




32.





電話を切ってすぐオフィスに向かった司を待っていたのはこの件に
マリが一枚噛んでいるらしいと言う報告
言葉を濁すマートスを問い詰め事の一部始終を聞き出した司は
苛立たしげに舌打ちすると思い切り椅子を蹴り飛ばした
大きな音をたてて横倒しになった椅子の車輪が虚しく空回りする中
マートスが苦渋の表情を浮かべ司に頭を下げる



「申し訳ございません、もっと慎重に取り計らうべきでした」

「いやお前だけのせいじゃない・・・」



司は斉藤がもとに戻した椅子の背にもたれかかると厳しい視線を
窓の外にむけ呟くように言い添えた
司が責めているのはマートスではなく自分自身
マリの口からつくしの名前が出たときもっと注意を払うべきだったと
ぴくりとも動かなくなった司にむかってマートスが一歩踏み出す



「今回の事は私の失策です、ですが牧野様を連れ出したのが
 マリー様なら探すまでもなく呼び戻せるかと・・・」
 


自信ありげなマートスに司は興味を惹かれ背もたれから身を起こした



「言ってみろ」










最初の会話を終えてしまうとマリと話す事などそれほどあるはずもなく
司のことを思いながらぼんやりと窓の外を眺めていた


ぽつりぽつりと降り始めた雨は今や激しくフロントガラスを打ちつけ
風に揺れる木々の枝がぶつかり合って不気味な音を響かせている
ワイパーはすでにフル稼働、濡れた路面がヘッドライトの明かりを
反射して前がよく見えない


ちらりと視線を向けた運転席、街頭の下を通り過ぎる度
薄暗い車内にくっきりと浮かび上がるマリの美しい横顔
高い頬骨にすっと通った鼻筋、見開かれた瞳はじっと前方を見つめている

運転に集中していると言うだけではない、彼女の表情に何か鬼気迫るものを
見たつくしは首筋が粟立つのを感じごくりと唾を飲み込むと膝の上で
バックを引き寄せそこにあるはずの携帯電話を捜し求めた


指先が携帯に触れるとほっと胸を撫で下ろしマナーボタンで音を消す
それから不自然にならないよう体を移動させドアロックを解除すると
信号を待ってマリに声をかけた



「病院まであとどれくらいかかるんですか?」



マリはすぐには答えなかった、でも瞳に込められた感情が狭い車内を
震わせているように思える
つくしは緊張で乾いた唇を噛んで湿らせると雨音に負けない大きな声
で続けた



「道明寺があたしを呼んでるって・・・本当ですか?」



目をしっかり見つめて詰め寄ったつくしにマリは小さな声でもしも・・と呟き
一呼吸おくと挑戦的な口調ではっきりと告げる



「司さんがあなたを呼んだとしても・・・いいえ呼んだとしたら
 私は絶対にあなたと司さん2人を会わせたりしないわ」


「それって道明寺・・・あいつは倒れてなんかないってこと
 あなたが言った事は全部嘘ってことですかどうしてそんな嘘を?」



口で責めながらつくしは内心湧き上がってくる安堵を顔に出すまいと
表情を引き締めた
信号が変わりつくしに注がれていたマリの注意が前方に逸れると
つくしは背もたれに体を預け固く目を閉じ全身を駆け巡る喜びを噛み締める


司の入院が嘘なら自分がここに呼ばれた理由は他にある
マリの態度から見てそれが友好的な内容でないことは明らかだが
それでもつくしは嬉しかった


病院のベッドで力なく横たわる姿などもう2度と見たくない
司にはいつまでも元気で・・・そして幸せでいてほしかったから




目を閉じれば鮮やかに浮かんでくる司の姿
幸せにしてあげたいと思ったたったひとりの男

もう自分の手で叶えられない思いなら誰かに頼むしかない
誰か・・・この場合彼の妻であるこの人に委ねるしかないのだろう
深々と息を吐き出したつくしは体を起こしハンドルを握るマリを改めて見つめた



「何か話しがあるなら仰って下さい、伺います」



マリがハンドルを右に切る1本の入るだけで道を行く車の数が激減した
車が完全に停車するとハンドルから離した手をダッシュボードへと伸ばすマリ
何かを取り出そうとする仕草につくしの体に緊張が走る
僅かに身を固くしたつくしに気づいたマリは嘲笑うような笑みを浮かべ
取り出した箱を掲げて見せた



「1本いかが?」



彼女の手に握られていたのは皮で出来たシガレットケース
首を振って断ったつくしの前でとマリがタバコを咥え火をつける

日本より禁煙化が進んでいるアメリカでしかもマリのような立場にある
女性が煙草を吸うことがつくしには意外な気がした



「私がタバコを吸ったらおかしいかしら?でもそうね自宅では吸わないわ
 司さんが嫌がるから、自分は吸ってるくせに男って勝手よね」


「お話は?」



露骨なあてこすりは無視して質問を繰り返すつくしにマリは
もう一度深々と煙を吸い込むとまだ長いタバコを灰皿に押し付けた
赤々と燃える火が消え最後の煙がゆっくりと立ち昇る



「彼の前から消えてほしいの、お金なら退職金の他に私から
 あなたが欲しいだけ差し上げるわ」





ひとつの恋を終えて大切な人を失う辛さは身にしみていた
だから事実上父親を失った状態のマリを気の毒だと思った
その上たった1人頼れるはずの夫までが自分ではなく他の女を求めたら
もし自分だったらきっ居たたまれない気持ちになるだろう、でも・・・・



「・・・お金?」

「司さんと今後一切会わないそれだけ約束してくれれば一生遊んで暮らせるのよ
 どう?悪い話じゃないでしょ」



気が付くとつくしはマリの横顔を思い切り叩きつけていた
頬を抑え凄い形相で睨み付けるマリと怒りで手を振るわせたつくし



「・・・・・・お金?お金なんかいらない、お金なんていらないわよ
 だったらあたしがあなたに一生遊んで暮らせるだけのお金をあげる
 あなたが好きなだけあげる、だから・・・だから道明寺をあたしに返して!」


「あなた自分が何を言ってるかわかって・・彼は私の夫よ
 人の夫をお金で買おうって言うの?怖い人ね・・・」


「何言ってるの?先に言い出したのはあなたでしょう
 あなたは人の心をお金で買うと言ったそれに道明寺を・・・
 お金で買おうしてるのはマリさんあなたの方じゃない?」




マリの指で光る小さな輪それは彼女が一生を約束された証
彼女の言う通り司はマリの夫
もしもっと別の方法で心を打ち明けてくれたなら
黙って身を引くことも出来たかもしれないと思うけれど



「叩いたりしてごめんなさい、でも・・・」



その時携帯がけたたましい音をたてて鳴り始めた
反射的に視線を向けたマリの動きがそのまま止まる
携帯の小さな液晶画面が映し出された発信元
そこには彼女の父フランク・ロスマンが入院する病院名が表示されていた







33.





ロスマン氏の病室入り口近くで小さくなりながらつくしは目だけを動かして
居並ぶ顔ぶれを見回した
怒りを露にした司その隣に控えるマートス氏、2人の視線の先にはベッドサイドで
父の手を握って跪くマリの姿






あの電話のあとマリは真っ青な顔をして車を急発進させた
下りる隙を与えられなかったつくしは猛スピードで疾走する車の中
ただシートベルトにしがみ付いているほかなく
ドアを開ける音が聞こえて初めて車が無事目的地に到着した事に気づいた
ふらつく足で車から降りたつくし待っていたのはジャック・マートス



『牧野様ご迷惑をお掛けいたしました・・・どうぞこちらへ』



訳がわからないまま彼の言葉と手に導かれ、たどり着いたのがこの部屋
先に病室に駆け込んでいたマリは昼間見たときと変わらない父の姿に
泣きながら司に詰め寄っていた



『これはどうゆうことなの?・・・もしかして彼女を取り戻すために
 父を使って私に嘘をついたのね、よくもそんな事を』


これを考えたのは自分だと口を挟もうとしたマートスを司が手で遮る



『お前自分が何をしようとしたか・・・よく考ろ』



常に礼儀正しく紳士な態度を崩さなかった夫から始めて向けられた
冷たい言葉と冷たい眼差しにマリは口を閉ざし背を向けると
父親のもとに行ったきりベッドの傍を離れようとしない






静まり返った病室の中で様々な人間関係それぞれの思いが交錯する
無言の数分がすぎ司が沈黙を破って口を開いた



「マリ言い分があるなら後で聞く、先に牧野に謝るんだ」



呼びかけても顔を上げないマリに司が声を荒げる



「牧野に謝れ!!」



強い口調にびくっと背中を震わせたマリが上目遣いで司を見上げる
無表情を装っていても全身から怒りのオーラを発散する司
目を凝らしても彼女が知っている優しい男の姿はどこにもない
栗色の瞳から零れ落ちた涙が繋いだ手を伝ってフランク・ロスマンの
細くなった腕を濡らしていく



「そんなに彼女が大事?だったらなぜ・・・・」



マリは言いかけた言葉を途中で飲み込んだ司が自分と結婚した理由
それが恩人である父への義理、その娘である自分と会社への責任感
それだけだと最初からわかっていた、愛など望んでなかったはずなのに



「お父様・・・なんで・・・」



マリが父の手を強く握り締めたその一瞬ロスマン氏の体が微かに
震えたように見えたが司もマートスも確信を持てず口にはしなかった
しかしマリははっとしたように体を起こすと父の手を唇に押し当て
必死に呼びかけ始めた



「お父様・・・お父様!?私の声が聞こえる、聞こえたら目を開けて
 1度でいいちょっとでいいから目を開けてお願いお父様」



その後ピクリともしないロスマン氏に向かって一心不乱に
何度も繰り返し繰り返し懇願するマリの姿は見ていて痛々しかった



「お父様お願い・・・お父様が必要なのお父様に会いたいのお願い」



黙って見ていたマートスが堪りかねて歩み寄ると肩にそっと手を
置いてマリを止めた



「マリー様どうかもう・・・」



脱力したマリの手から滑り落ちたフランク・ロスマンの手
その指先がピクリと動いたと思うと瞼が小刻みに痙攣し
ゆっくりとフランク・ロスマンが目を開き娘を見つめ微笑んだ

誰もが驚きで動けずにいる中マリだけはベッドに駆け寄ると
父を抱きしめて泣き崩れた
ロスマン氏はぎこちない仕草で腕を動かすと自分の胸で泣きじゃくる
娘の背を優しく叩いた



「マリ・・・愛しい娘」



声は酷く掠れていたが愛に飢えた娘の心にはこれ以上ないほど
強く響いた父の声、駆けつけた医師に診察する間席を外してくれと
言われてもマリは拒み続けたが父の声に促されしぶしぶ席を立った


4人がぞろぞろと廊下に出ていくと静かに近づいてきた斉藤が
司の耳元で何事かを囁く
僅かに頷いて斉藤を下がらせた司は満足げな笑みを浮かべマートスの
肩を叩いた



「カナダに飛んだSPがロバート・ウエルズの身柄を確保した
 マートスお前の手柄だな」



マートスはロスマン会長危篤の偽情報をマリだけではなくラスカンの
耳にも伝わるように細工を加えていた
彼の思惑通り、ロスマン危篤の情報を手に入れたラスカンは最後仕上げに
生きの証人であるウエルズの命を狙った

張り込んでいたSPに間一髪助け出されたウエルズは空港に向かう車内で
ラスカンとの関係、犯した罪を認めそれを公の場で証言する事を誓ったと言う



「出切るだけ早くリチャート弁護士のアポを取り付けてくれ」



マートスが遠ざかっていくと司はひとり残ったつくしに目を向けた
興奮で輝く黒い瞳は獲物を追い詰めた獣の瞳、美しくて残忍な大きな獣



「悪い、バタバタしちまって」


首を振るつくしの横でちらりとマリを見た司は声を低くして
先を続けた



「マリには必ず詫び入れさせる、取り合えず今日は送ってく
 断んなよ・・・あいつがマリが迷惑をかけたんだ」



言い終えた司はつくしの答えを待たずさっさと長い廊下を歩き出す
先を行く司の大きな背中を見ながらつくしは心の中で祈った
この人が背負っているものはとてつもなく大きい
ロスマン氏が目覚めたことでその重荷が少しでも軽くなったならと


歩き出そうとしたつくしは背後から強い視線を感じ振り向いた
次の瞬間鳴り響いた轟音と共につくしが身体がまるで人形のように
力なく廊下に崩れ落ちる
駆けつけた司が叩き落した時、拳銃からはまだ煙りが上がっていた




「牧野!!!――くそっ俺の前で死ぬなよ聞いてんのか?
 聞いてるなら目開けろ!!牧野!!」




司の怒鳴り声が薄れゆくつくしの意識を呼び戻す、
目を開いたつくしだが腹部が焼け付くように痛くて呼吸も出来ない
それでも声を出そうと口をパクパクと動かすつくしを司は抱きしめた



「喋んな黙ってろ!!」


つくしが最後に感じたのは抱きしめる腕の強さと懐かしいコロンの香り
そして司の温もりだった







34.





ロスマン社は独自に調べた関係資料と証人をリチャート弁護士に託し
リチャートはそれをFBIに持ち込んだ
そしてFBIを通じて提出されたこれらの捜査資料を基に米連邦地検が
サム・ラスカンを経済スパイ法違反の容疑およびロバート・ウエルズに
殺人を強要した容疑で起訴
ラスカンは他にS社元社長への恐喝、ロバート・ウエルズへの殺害指示
などいくつかの容疑に関しても近々起訴される予定だった
そしてリチャートは国際貿易委員会(ITC)にも資料を提出しS社による
断熱塗料の販売停止を求める訴訟を起こした



社長の地位にある人間がこれだけの事件に関与していたと報道された
S社の信用はがた落ち株価は暴落
その発端となったQ-1356の特許権をロスマン社と争えば新たな醜聞は
避けられず
そのため米国連邦巡回控訴裁判所(CAFC)に控訴される事は考えにくい
連邦地方裁判所とITCの判決が出た時点で事件は終息に向かうだろう


ロスマン社ではS社の特許が取り消されたのち改めて特許申請をする
手はずが整えられている
また司が望んだ通りバイオサイエンス部の技術員とビオラブの社員は
互いによい刺激になったようで日々の提出される研究報告書には結果
が形となって現れつつあった
もしかしたら年内にもうひとつ大きな発見があるかもしれない



しかしメンバーの中につくしの姿はない





出血多量で一時危険な状態にあった彼女は緊急処置の後
急遽集められたNYでも最も優秀な外科医チームによる最高の治療が
幸いして奇跡的に命を取り留めたが・・・・



開け放たれた窓から吹き込む爽やかな風がカーテンを揺らす
窓から差し込む陽の光が眠り続けるつくしの枕元に置かれた
ダイヤモンドに反射して壁にいくつもの光の輪を作っている


控えめなノックの音に顔を上げると膝の上に花束を抱えたロスマン氏が
マートスが押す車椅子に乗って入ってくるところだった
立ち上がろうとする司を制したロスマン氏はベッドサイドに来ると静かな
呼吸を繰り返すつくしの頬にそっと触れた
そしてゆっくりと振り返ると司にも同じように優しく触れた


意識を取り戻したロスマン氏は順調な回復を見せどう医師を説得したのか
病室の一部を改造させて仮のオフィスとし少しずつ仕事もこなし始めている
もう少し体力が戻れば退院して完全に仕事に復帰できるだろう


一方司はどうしても外せない仕事で外出する以外全ての時間を
この病室で過ごしていた
やつれきった表情を見れば彼が休息とっていないことは一目瞭然



「ちゃんと休みなさい・・・君の方が病人みたいだ」


ロスマン氏が去ってまたつくしと2人きりになると司は静かに
つくしの手をとり2人の出会いから今日に至るまでの歩いてきた道のり
自分の気持ち・仲間の事・・・思いつくままいつまでも話し続ける



「牧野いつまで寝てんだよ、寝顔はもう見飽きた
 そろそろ目覚ませよ一緒に日本に帰ろうぜ」



NY、ここに存在するのは苦渋に満ちた別ればかりだった
つくしにとってもそれは同じこと、でも今回は・・・
今回だけは変えてみせる、絶対に別れになどしない

司は自分自身の力を注ぎ込むかのように
眠り続けるつくしの手をギュッと握り締めた

















to be continued...
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