錆びつく森

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act.17

written by  桜くらくら




35.





「静、最近、疲れているんじゃないか?
少し休暇をとって、リフレッシュした方がいいんじゃないかな?」

仕事で小さなミスをした時、上司にこう言われた。
思いやりで言ってくれてることは判るのに、心が更にささくれだってしまう。
今の私はここにいても足手まといなのかと。



確かに疲れてはいる。

温室を飛び出して自分の足で歩きだした世界は、秩序など存在しないかの様。
クライアントの依頼は要を得ないし、誰も彼もが時間にルーズ。

とびきりいい靴を履きたくても、自分の収入では到底買えない。

あんなにも憧れた自由が、こんなにも厳しいものだったなんて…。



子どもの頃、ひとたびマスターしたことは、二度とおさらいする必要がなかった。
能力は開発し、伸ばすためのもので、それを実践するためのものではなかったから。
同じことを何度も繰り返すなんて、時間の無駄だった。

けれど、自立して生活を始めると、部屋を快適に保つにしろ、
食事の準備をするにしろ、生きることは気が遠くなるほどの反復繰り返しだった。

そして、私は初めて、自分が反復作業にまるで向いていないことを知ったのだった。



『静と牧野って、同じ橋を逆方向に渡ろうとしてるんだよな。
 で、どっちも苦労しょいこんでさ。』

何年か前、まだ学生だったあきらがパリに訪ねて来たとき、彼は笑いながら言った。

『静にとって上流階級で暮らすことは何の苦労もないことなのに、
わざわざ橋を渡って生活のランク落として。
牧野は牧野で、あいつにとっちゃ家事をこなすことなんて呼吸することと同じなのに、
別の能力が求められる世界に入ろうと頑張ってる。』

持てるものを捨てて弱者のために貢献しようと言う志と、
玉の輿に乗るための花嫁修業を同じ重さで語られた様で、
あきらのその言葉は未だに消化できていない。
彼女のことはとても好きなのに。


今日の様に疲れていると、そんな記憶も、私を卑屈にさせる。
ええ、牧野さんなら、家事の繰り返しで疲れたりしないでしょうね、と。



違う…ここ数日、彼女が頭から離れないのは……そして、こんなに疲れ切るほど
苛ついているのは。

本当は、偶然に類と会ったから。


以前なら、パリに出張があるなら、必ず連絡をくれ、一緒に食事を楽しんだはず。
それが、私に黙ってパリに滞在し、顔を合わせることなく帰るつもりだったらしい。

街角で声を掛け、交わしたキスは儀礼的なものだった。
食事に誘い、彼の好きそうなレストランに引っ張って行ったけど、
何を話し掛けても、心ここにあらず、と言った雰囲気だった。

「何か、悩みでもあるの?」そう訊くと、

「まあ、司の会社のことで……詳しくはまだ話せないんだけどね。」と答えた。

でも、私には判る。類は司のことだけならそれほど悩みはしない。
恐らく、彼の心を占めているのは、きっと牧野さん絡みのことだから。

彼女が幸せになってくれないと、私の類はいつまでも宙ぶらりんのまま。
いつまでこんなことが続くのかしら。




私は、司の幸せを望んでいた。
遠距離恋愛に終止符を打ち、司と牧野さんが幸せに寄り添う日が来れば、
類は再び私のものになる。

小さな頃から、私だけに反応し、完全に私のものだったはずの類。

私が日本を離れた隙に、他の女の子を眺めて笑う様になったけど、
所詮彼女は親友の恋人。

彼女にハッピーエンドが訪れれば、自然に本来の場所に戻ってくるはずだった。

なのに。

突然現れた司の結婚相手。

牧野さんは取り残されたまま。
そして、類の心も戻って来ない。



こんなはずじゃなかった。
マリー・ロスマンと言う女性の存在が、私の人生を狂わせた。
マリー・ロスマンのおかげで私は安らかな眠りを得られない。





NY出張の折り、マリー・ロスマンを見てみようと思った。
彼女を見れば、何か自分を納得させる材料を見付けられるかも知れない。
彼女は毎日、父親が入院している病院に足を運んでいるらしい。

その病室の周囲はSPだらけだったけど、
顔見知りの道明寺家のSPのおかげで、病室の前までは行くことができた。

そこで目に入った司の後ろ姿。
そして、その後を追う、牧野さんの姿。

…どうして彼女がここに…?

混乱する頭に、ひとつ、確かなことが浮かんだ。

私は彼女が嫌いだったのだ。




出会ったとき、彼女は学園一みじめな存在だった。
だから私は手を差し伸べた。
いわば、私のナイト達が傷付けたのだから。

誰の言葉にも耳を貸さない、私だけが窘めることが出来る4人のナイト。
いつでも私はその中心にいた。

その場所を、学園一みじめな少女に奪われるなんて、思いもしなかった。
しかも、私のナイト達の牙を抜いて手懐けてしまうなんて。
彼等の魅力を半減させてしまうなんて。

私に憧れて法律を学ぶのだと言っていた少女が、
私の大事なものを奪っていくなんて!

……こんなことが許されていいの?






気が付くと私は、護身用に持っていた銃を握っていて、
煙が立ちのぼるそれを、司の手によって叩き落とされた。

すぐ側に倒れている彼女を、司がかき抱いて何か叫んでいる。

何が起きたのか、判らない。







36.





目が覚めたら娘が涙ながらに私を呼んでいた。

私もマリもひどく混乱していた様で、ほとんど会話が成り立たなかった。

医師が呼ばれ、マリが病室を出た直後、銃声が聞こえた。そしてなにやら叫ぶ声。
何事か気になったが、医師と話すうちにすぐに疲れてまた眠りに落ちてしまった。


どのくらい眠っていただろう。
再び目覚めた時、ベッドの側に座っていたのはマートスだった。
マリはショック状態で休んでいると言う。

マートスは、ゆっくりと、私が事故に遭ってから今に至るまでの出来事を話してくれた。

私は二年近く眠っていたらしい。

その間に、マリが司と結婚し、司がロスマン社の社長となったこと。
私の事故は、やはりサム・ラスカンの謀略であったらしいこと。
あの頃、ラスカンが企んでいた悪事は、司とその友人達の尽力によって、
ほぼ明らかになったこと。
たまたま、そのために呼ばれていた司のかつての恋人が司の友人に撃たれたこと。

やはり、司には想い人がいたのだな……。
恐らく、私の事故がなければ、マリと結婚することもなかったはず。
ロスマン社の内部のトラブルで、関係のない、何人もの人生を狂わせてしまった。

マリと司の関係は、およそ夫婦とは言い難いものらしい。


重体であると言う、司のかつての恋人の資料を見せてもらった。
その顔、その名前。
よみがえる、セントラルパークでの思い出。
不調が続くビジネス交渉に悩み、自信を失いかけていたあの日。

あの少女は道明寺楓を知っていた。そして、嫌いだと言っていた。



あの時のランチの約束は未だに果たせていない。







37.





牧野つくしを排除するためなら、敵に協力してもらおうとさえ考えた。

けれど、彼女が重体になった今、司さんは彼女の側を離れようとしない。

犯人は、司さんの幼馴染みで、牧野つくしとも友人だったと言う。
漏れ聞こえてくることによると、もともと狙われていたのは私かも知れない、とのことだ。
恋人が自分の許に戻らないのは私のせいなんだとか。

醜い。
得られない愛情を、他人のせいにするなんて。
そして悲しい。まるで自分を見る様で。





珍しくお父様から頼まれごとをした。
私はその願いを果たすべく、司さんに会うために牧野さんの病室に向かう。
お父様からの伝言と、グッドラックチャームを携えて。

司さんはひどくやつれていた。

「司さん、お父様からの伝言があるんですけど、少しお時間頂けますか?」

声を掛けると、彼はこちらを見て「ああ」とだけ言った。

私はグッドラックチャームを取り出し、彼の手に乗せた。

「どうしてこれが……?」彼が驚きの声を上げる。

「お父様がオークションで落札したんです。
 そして、いつか本来の持ち主に返したいのだと常々言っていたのですけど、
 それを司さんに頼みたいと言い出しまして。」

「……何故?」

「私も何故司さんにお願いするのかは判りません。
 ただ、お父様がこのボールのもとの持ち主に大層恩義を感じていたことは知っています。」

私は父とこのボールにまつわる物語を話した。父に頼まれた通りに。
取引先との関係に悩んでいた父を励まし、魔法の言葉を教えてくれた少女の話。
そしてこのボールでキャッチボールをしたこと。
彼女に付き添っていたガラス玉の様な瞳の少年のこと。
彼等をランチに誘ったけどそれは後回しになり、未だ果たせていないこと。

「父によると、あなたのお母様との交渉が決裂しなかったのは、その少女の
 おかげだそうです。
 だから、あなたと知り合えたのも、彼女のおかげなんですって。
 そのボールは、いつか約束のランチが実現したとき、彼女に渡すつもりで
 いた様なんですが、いきなり、その役を貴方に、と言い出しましたの。」

「そうだったのか…。」司さんはそのボールを握り締め、苦悩する様に目をつぶった。

そして彼とそのボールにまつわる物語を語り始めた。
それは、私が想像もしていなかったことで。










to be continued...
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