錆びつく森

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act.19

written by  鳥




40.





「今年の夏は海行けなかったな…」


病室の窓からは、熱風に近い風が時折入り込んでくる。

けれど日本よりNYの方がマシだなと思えるのは、湿度が少ない所為だろう。

そんな風とカーテン越しで少し和らいだの午後の陽射しをぼんやりと見つめながら、
顔だけ横に向けてポソリと呟いたつくし。


「ン、海に行きてえのか。治ったら連れてってやっから、
 今はまず治すことだけ考えろよ」


書類に目を通していた司は、ふっと顔を上げるとつくしの小さな呟きに答える。

そんな司の瞳にはほのかに灯る優しさで満ちていた。



つくしがようやく目覚めてから2日。

やっと安堵できた司は、今までの重圧から逃れたいが為にというよりは、
本当につくしが目覚めてくれたのだという幸せに浸っていたくて、つくしが
生きているということを肌で傍で感じていたくて、今まで以上につくしの
病室に極力いるようにしていたのだった。

司にとって、ここにいることが唯一の穏やかな時間であり空間であったのだ。


「連れてってやるって、あんたにはマリーさんがいるじゃないの。
 それにあたしは日本の海がいいし。大体なんであんたずっとここに」


「マリとはもう離婚した」


「はっ?え、あんた何言って…」


鳩が豆鉄砲食らったように口をポカンと開けて、目を何度も瞬きさせ
パチクリさせながら、司の言葉は耳では聞き取れていても、脳では
理解不能に陥っていたつくし。


「そのことだけど。…おまえ、俺と一緒に日本に帰らねえか?」


「ちょっ、ちょっと待って、あんた何言い出すの?いきなり離婚だとか
 日本へ帰っ…いたたたっ…」


司の言葉に訳分からず、つい身体を起こそうとしたつくし。

だが急な動きは怪我した腹部にとって当然ついていける訳もなく、思わず痛さで
お腹を押さえて顔を顰める。


「バカか、おまえ。いきなり動けば痛いに決まってんだろ。
 ほれ、じっと寝てろ」


そう言った言葉はぶっきらぼうな言い草だが優しくつくしを労わり、そっと
半身寝かせると、頬にかかってしまったつくしの黒い髪の毛を、綺麗な
長い指で優しくそっとよけてやる司。

そんな司に少しばかりドキマギしてしまい、不覚にも頬が赤くなったのが
自分でもわかって、恥ずかしさの余り顔を隠すようにぷいっと横に背けた
つくしだった。


そんなつくしに動じることなく、スーツのポケットに手を入れ箱を取り出すと、
それを自由の利くつくしの手に握らせた司。





「日本に帰ったら、結婚してくれ」





大きな黒い瞳が更に大きく見開くと共にぐらりと揺らぐ。

握らされた箱の感触と司の温かい手を感じて、声もびっくりして出すことも
ままならない中で、顔だけゆっくりと司の方へと向けたつくし。


「遠回りしちまったけど、俺にはおまえしかいねえから」


つくしの瞳は司の真意を探るべく奥底にあるものを見透かそうとして見つめたが、
司の真っ直ぐな視線が嘘偽りなど言うべくも無く、あっという間に本気を
証明する瞳に吸い込まれ囚われていった。



つくしが撃たれてその後は早く目を覚ましてくれとずっと大事に仕舞っていた
婚約指輪を敢えてつくしが横たわるベッド横のキャビネットの上に置いていた司。

だが、マリーとの離婚も出来ていないのに、これではマリーに対しても
ロスマン会長に対してもさすがに失礼な行いであると思い、また仕舞っていた。

ただいつでも出せるようにと、自分の胸のうちには後にも先にもこの想いしか
ないのだと、その表われのようにスーツのポケットに忍ばせていた司だった。



そんな二人の心が交わりかけた時、それを邪魔するように扉をノックする音が
して病室のドアが静かに開く。


「やっと意識が回復されたとお聞きしましたので…」


そう言いながら深々と頭を下げながら入ってきたのは、品の良い身なりにやつして
いたが、やつれているのか疲れた感じがする少し歳のいった夫婦であろう
男女であった。


「おじさん、おばさん…」


振り返るとがたっと音を立てて椅子から立ち上がった司は、先程とは違って
少し険しい表情となり、搾り出したような低い声を出す…。

つくしはつくしで誰だろうと思いつつ、きょとんとした様子で病室に入ってきた
客人たちを見ていたのだった。







41.





「本当に申し訳ございませんでした。どれだけ謝っても謝りきれることとは
 思えないのですが、どうか娘のしでかした事を許して下さい」


いきなりがばっと正座して座り込むと病室の床に額をこすり付けそうな
勢いで謝り始めた男性に付き添うようにいた女性も夫に付き合うように
正座すると「娘のこと、どうか許してやってください」と懇願し始める。


「おじさん、おばさん、そんな事言われても、世の中には許せることと
 許せないことがあるって前にもお話したはずです。だからこんなことは
 やめて下さい、お願いですから」


そう言いながら、二人を立たそうとした司。

けれど、逆に司の腕をしっかりと掴んだ女性は、縋りつくように司を見上げると
やつれた顔に涙を流す。


「だって、静は…静は私の一人娘なのよっ、大事な大事な私の娘なのよ〜〜っ」


泣き崩れる女性に追随するように、男性も司の片方の腕にしがみつく。


「そうなんだ。いくら勘当してしまった娘とはいえあの娘は私の大事な娘、
 藤堂家の娘であることには変わりがないんだよっ、司くん」


「…」


「ねっ、司くんだって静の小さい時からのお友達でしょう。
 だったら今回だけはどうかあの娘のしたこと許してやって欲しいの。
 あの娘はあの時、気がおかしくなっていたのよっ、知っているでしょ、
 司くん。だから何も無かったことにして欲しいのっ」


「頼むっ、司くん」


涙ながらに訴えてくる小さい時から知っている4つの目を見ていられないのか、
苦しそうに頬を歪め顔を背けた司。


その隙にばっと立ち上がるとつくしのベッド傍まで行き、またしゃがみ込んで
正座をすると頭を下げた静の母親。


「つくしさん、本当に静がしでかした事は許されることではないわっ。
 でもどうかこの通り許してやってください、後生ですから。
 貴女も静とはお友達と聞いているし、それに免じてどうか今回の事件だけは
 無かったことにして欲しいんですっ、お願いですからっ」


静の父親も、司を押しのけて当の被害者であるベッドの上にいるつくしの傍に
駆けより頭を下げたまま謝罪し懇願する。


「つくしさん、このとおりだ、今回の事件は不問に付してくれないか。
 そうじゃないとこの藤堂家の娘が犯罪を起こしたことが表沙汰になれば、
 藤堂家だけではなく、引いては会社も潰れ、私の会社に勤めている社員も
 その家族も路頭に迷ってしまう。
 それだけはどうしても避けたいんだ、頼むっ、つくしさん。
 その代わり、当然つくしさんが望むものはお金でも何でも」


「あのっ、…ちょっと待ってください」


静の父親と母親、そして司との一連の遣り取りを見ていたつくしは、
静の父親の話を遮る。


「…あたしを撃ったのって、…しず…か…さん……だっ…たの……?」


呆然としたまま、ショックの余り震える口唇が上手く動かなくて上擦った声で
ここにいる三人に問いかけたと言うよりは呟いたつくし。

ただ瞳は大きく見開き、信じられないと言う顔つきで青ざめ、体全体が小刻みに
震えていた。


「…おじさん、おばさん、悪いけど今日はもう帰ってくれ。
 これ以上牧野を混乱させたくねえんだ。
 まだこいつは2日前にやっと目覚めたばっかりなんだよ」


そう言うと、静の両親の腕を引っ張って立ち上がらせると、そのまま病室の
扉の方へと背中を押していく。

けれど、静の両親もここで引き下がるわけも無く「でもっ、司くん」と
振り返ろうとする。

その瞬間、病室に怒鳴り声が響く。


「帰れっつってんだろっ!」


その声にビクついてたじろぎながらも、司の顔を見上げた静の両親。
その司の面立ちには、凄まじい怒りが浮かんでいた。


「す、すまなかった…。また日を改めて」


「こちらから連絡するまでは、今後あなた方には用が無い」


今まで押さえていたものが噴出したのか、容赦ない司の冷たい言葉と共に
冷たい視線が静の両親に突き刺さる。

それは静の両親が知っている学生の頃の司の姿ではなく、紛れもなく
道明寺財閥総帥、そしてロスマン社社長も兼任し、全てを凌駕すべく
立場にある者の威厳ある姿であった。


静の両親たちの鼻先で扉をピシャリと閉めて振り返れば、つくしが必死に
半身を起こそうとしていた。


「おいっ、まだ無茶すんなっ!」


つくしの元に駆け寄って体を支えようとした司にしがみついてでも、体を
起こそうとするつくし。


「…ねえ、静さんがあたしを撃ったって…、嘘でしょ?嘘だよね」


零れ落ちそうな涙を必死に瞳で堪えたまま、司を見上げて不安そうに尋ねる。

少しの間逡巡し、どう言うべきなのか迷いあぐんだ司。

けれど静かに口火を切る。


「…おまえ、撃たれた時のこと覚えてるか?」


「…覚えてたらって、何かすごい視線感じて、それで振り向いた時は…
 もう焼け付くように熱くてすごい痛みがして…」


スーツに皺を作っていることにも気付かず、ぎゅっと司の両腕にしがみ
ついたまま、二ヶ月前の時のことを必死に思い出そうと脳裏にある記憶を
呼び起こし辿る。





あの時…、振り返った瞬間…、


目の端に女の人が見えた気もするけど…、



あの女の人が静さんだったの……?



でもどうして静さんが……?



どうしてあたしを……?





つくしの双眸は焦点が合うこともなく、空を見つめたままだ。


「……どうして静さんが……」


どうしてという心から何度も湧き上がってくる疑問が口をついて出てくる
のと同時に、司の腕にしがみついていた手の力はいつしか力が抜けて、
だらりと落ちる。


青ざめ呆然として固まってしまったつくしを労わるように、司もベッドの上に
半分だけ腰を下ろすとそっと肩を抱き自分の胸につくしの体を預けさせた…。



竹馬の友であり、幼い頃から姉と同様慕ってきた静がなぜこんなことをしなきゃ
ならねえんだと思う司。


聡明であるはずの静の精神が壊れていたのだとわかっても、その理由も
聞いた瞬間、許せない思いが湧き上がったのと同時に、自分の運命が
つくしやマリーだけではなく、類や静にまで影響を及ぼして巻き込んで
しまっていたのかと遣り切れない思いに苛まれる。


苦渋に満ちた表情を浮かべた司に気付く様子もなく、つくしは抵抗することも
忘れ司に身体を預けたまま、ぽたぽたと涙を零しながら泣いていたのだった。



司の足元には、先程つくしに握らせ持たせたビロードの箱がいつの間にか
落ちて、虚しく転がっていた。





まるで、この先の哀しき運命を暗示するように ――――。










to be continued...
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